オレンジ色の灯りが揺れる暗室の中、膨大な量のフィルムを一枚一枚焼き付けていく。
我ながら、一日でよくこんなに撮れるものだと感心してしまう。
写真家という職業柄それは当然のことだが、今時デジタルではない一眼レフをしつこく使い続け、さらにそれで撮影した写真をすべて自分の手で現像しているプロの写真家は少ないと聞く。確かにこれは途方もなく面倒な作業だ。こうして作業が深夜に及べば時々頭が痛くなったりするときもあるくらいだが、それでもアシスタントや助手を使う気にはならなかった。
作業を始めてから3時間。いい加減首と肩が固まってきた頃、フィルムはようやく最後の一枚となった。それを現像液に浸す。



ゆっくり、じわじわと浮き上がってきた写真には、写るはずのないものが写っていた。



それは、泣いている女だった。



とは言っても別に心霊写真というわけではない。それは実体を持つ、確かな人間だった。だが、だからこそ、俺の撮影したフィルムにそれが写っているはずがないのだ。
大倉忠義は、人物を撮らない。
モデルであっても一般人であっても、老人であっても子供であっても。それが人間ならば、絶対に被写体にはしない。
人間は、撮らない。人間嫌いのカメラマンと言われることもある。それがいい意味ではないことも知っている。しかしそれが徹底したスタイルだった。ポリシーと言ってもいい。固執とも呼べるのかもしれない。その固執に理由は特にないけれど、そのかわり例外もなく。



人間嫌いのカメラマン。
『人間嫌いの大倉忠義』。



時間を置かれてはっきりと写し出された写真を眺める。



年若い女。夜。涙。場所はわからない。
このフィルムの封を切ったのは昨日だ。そして撮りきったのも昨日。だとしたらこれは絶対に昨日の夜に撮影された物。
昨日の夜、俺は何をしていた?
たしか、編集の仕事をしている友人と酒を飲んで、珍しく酔った頭を冷やさないまま友人と別れ、この家に帰ってきた。
と、すれば、飲み屋から家までの間にこの写真を撮ったということになる。この女にも、そもそも撮影したということ自体にも覚えがないのは、つまり酔っていたからだろう。カメラはいつでも持ち歩いているし、目を瞑ってでも操作できるほどに使い込んだ物だ。たとえ泥酔していたとはいえ撮影ができたこと自体に関する不思議はない。
だとすると、あとは理由だ。なぜ俺は、この女を撮ったのか。
「・・・・・・」
だけどそれは、むしろ明白だった。理屈でわかることではないという確信すら持てる。



彼女だからだ。



酔っていた俺は、泣いている彼女に惹きつけられたのだろう。なぜだかわからないけれど、何かを奪われ、シャッターを切らずにはいられなかったのだろう。フィルムに焼き付けたかった。写真の中に閉じ込めたかった。手に入れたつもりに、なりたかったのだろう。
ちょうど、今の自分と同じように。















初めてカメラという物に触れたときのことは、はっきりと覚えている。小学校低学年の頃だったと思う。自分が知識として知っているカメラというものよりずっと大きくて重たくて、わけのわからない形状。
最初に触れた父のカメラに俺が抱いた感想はおよそそんなものだったと思う。なにせ幼い時分だ。20年後に自分がこのわけのわからない物体で生計をたてていくなんて、露にも思ってはいなかっただろう。
大きなカメラを手に首をかしげている俺のそばに、父がしゃがみこんだ。
「遊び道具ちゃうぞ」 
「知っとるよ、写真撮る道具やろ。どんなん撮るん?」
「どんなんって、なんでお前が知らんねん」 不機嫌そうにそう呟いて周囲を見回し、父はサイドボードの上に置いてある写真立てを手に取った。写っているのは白い布に包まれた、真っ赤な新生児。
「ほら、俺の子やで」
「・・・俺やんそれ」
「そうとも言う。つかもっと感動せぇよ。生まれてすぐの写真やで」
「だってこんなん、宇宙人みたいやん」
「アホ。よお見ろ。サルにそっくりや」
「え、サルなんていやや!」
「宇宙人のがええんかい。変な奴やな」
「・・・写真なぁ・・・」
「せやで。んで父ちゃんは、これをお前が持っとるその黒くて硬くてでかいカメラでこんなんで撮るのが仕事」
「こんなのが仕事なん?」
「何がこんなのやアホ。この写真やったら・・・せやな、もうネガもなんもないし、唯一の子供の写真やからな・・・売り方によっちゃ何十万や」
「そんなに!?」
「そうやぁ。父ちゃんすごいねんぞお前」
「それならもっと俺の写真撮っていっぱいお金もうけたらええやん!」
「・・・それやと意味ないなぁ」
俺が初めて目にした写真は、俺自身のものだった。真っ赤な顔をした、宇宙人みたいな、それでいてサルみたいな俺。
だけど父は、それ以降俺の写真を撮ろうとはしなかった。何かの節目にも、誕生日にも、なんのことはないスナップすら、撮ることはなかった。
どうしてだろう、と不思議に思ったことは何度もある。だけど、聞くことはなかった。少し成長すれば父の仕事が超一流と言われる写真家であることを理解できたし、家庭の中とはいえそんなプロの人間がそう簡単にシャッターを切ることはないというのが矜持なのだろう、と、もちろんそんな時分にそんな単語は知らなかったけれどそれに近いニュアンスのものを勝手に想像して、納得していた。そんな父に、憧れと尊敬の念を抱いて。
だから、聞くことはなかった。
もしもその時点で聞いていたら、父は本当の理由を正直に話したのだろうか。

















女の写真を片手に、携帯電話を取り出す。電話帳から一つの名前を探した。



幼馴染のそいつは、16歳の時に当時俺たちが住んでいた大阪からこの東京に引っ越していった。それから5年後、家を出て一人上京した俺とそいつは偶然の再会を果たすこととなる。
いつの間にか大手出版社に就職していたそいつは、俺が初参加にして大賞を受賞した写真コンテストの表彰式に取材目的で出席していたのだ。
下調べの段階で受賞者が俺だということを知っていたそいつは、取材会場で面食らう俺に「運命やなぁ」としたり顔で笑ってみせた。
それが、2年前の記憶。



そして現在。
7回、呼び出し音。深夜1時を回ったところだが、眠っていることはないだろう。そう思った矢先、呼び出し音が途切れた。
『もしもーし』
「あ、俺」
『なんやねんなぁ、今俺めっちゃ忙しいねんぞ。お前のインタビュー記事まとめとんねん。ほんまめんどくさい』
「なら次からおたくの取材はお断りしますわ」
『いや嘘やん!そんなこと言わんといてや!』
とたんに情けなくなる声。相変わらず調子がいい。
『俺がこうやって過酷な現場から楽なデスクワークオンリーの立場になれたのも大倉さんのおかげです。独占取材もインタビューもめったに受け付けない大倉さんが、うちの雑誌だけ取材受けてくださるその理由が俺やから!せやから俺は出世できたんです!この天才!天才フォトグラファー!』
その通り。いろんなコンテストで賞をとって名前や顔が売れ始めてから取材の申し込みがやたらめったらに来るようになった。だが基本的にそういう面倒なことが嫌いな俺は、個展前などを別にしたらインタビューなどは受け付けない。そんなもの受けずとも、写真集を出せば印税がなだれ込んでくるのだ。だけど同郷のよしみというか幼馴染のよしみで、1週間俺の家に通いつめて必死な顔で頼み込んできたこいつの取材だけは受けることにしているのだ。イコール、必然的に独占取材。それでこいつが編集部で一目置かれることになったとかなんとか、聞いたような気がする。
しかしこんな口八丁がすらすらと出てくるところを見れば、むしろこいつにはデスクワークよりも現場のインタビュアーのほうが向いているような気はするけれど。そもそもこいつは中学生の頃から、一日中机に張り付いていなければならないような作業なんかよりも体を動かす作業のほうがが好きだったはずなのだ。まぁそれでも、中学生の頃の話を立派な大人になった現在の引き合いに出すのも酷な話か。それに、俺のあやかり知らぬところ、現場には現場で体力だけじゃどうにもならないこともあるのだろう。
そう、片付けて。


「そんな天才フォトグラファーがさ、ちょっと無茶なお願いしたいって言うとんねやけど」


そう切り出すと、そいつは電話の向こうで嫌な顔を露骨に浮かべた、と思う。見なくてもわかるくらい嫌そうな空気が感じ取れる。
『・・・・・・』
「引き受けてくれる?」
『いや、その前に内容聞かせて・・・いややっぱ言わんといて!聞かずにお断りします!』
「せめて聞けや。ひょっとしたら100円貸してって言うだけかもわからんやろ」
『だって無茶なお願いって言うたやん!100円とかありえへんやんか、お前なんぼ稼いどんねん』
「やらしい質問すんなや。まぁ単純計算でお前の3,4倍くらいちゃうか?」
『答えんのか!っつーかマジで!?』
編集部という場所はこんなに騒いでも平気なものなのだろうか。老婆心ながらこいつの編集部内での立ち位置が心配になる。邪魔者扱いされてないだろうか。俺なら邪魔者扱いするけれど。
『あーもーほんまこういうの萎えるよな!労働意欲ほんま激減!・・・絶対一日通した拘束時間労働時間残業時間、俺お前よりよっぽど多いはずやのに・・・』
「ってか俺フリーやし。拘束時間も残業時間もないわ」
『ええ御身分やな』
「天才ですから」
『実力伴っとるところが腹立つわ・・・』
「それより」
逸れてしまった話を戻す。
「お願い、聞いてくれるやろ?」
『えー・・・俺今ほんま意欲ゼロやねんけど』
「でもある意味プレゼントやで」
『・・・は?プレゼント?無茶なお願いのくせに?』
よし、食いついた。プレゼント作戦はこいつにとって昔から変わらず有効だ。
女の写真にちらりと視線を落とす。相変わらず、彼女は泣いていた。当たり前のことだけど。



「『人間嫌いの大倉忠義』がうっかり撮影してしまった、人物写真」



電話の向こうの空気が変わった。
『・・・・・・え、お前、マジで?人物撮ったん?ってかうっかり撮影ってどういうことやねん』
「うっかりはうっかり、ちょっとワケありの写真なんやけどな。まぁ見栄えはええし何より記念すべき初人物やん?できたら次号のグラビアあたりに組み込んでいただいたり、あわよくば表紙差し替えでもしてもらえへんかなーっていう、お願い」
『・・・ワケありっつーのは?』
「それの説明も兼ねて今から編集部にお邪魔したいんやけど、お時間とっていただけます?」
『今すぐ持ってこい』
モードチェンジしやがった。小学生時代はいじめっ子のガキ大将だったことを思い出す。そういえばあの頃は運動神経だけよくて勉強はいまいちだったくせに、よくこんな大手出版社に就職できたものだ。渡世術。なのだろう。
突然の命令口調に苦笑いしながら、「了解」と答えて電話を切る。
入りはこれで大丈夫。実際に見せるまでもなくこの写真が採用されることなどわかりきっている。この写真を掲載したい理由とその目的を正直に話したところで、あいつはそれを半ば面白がりながら快諾するだろう。
目的。
それはこの写真に写っている女をあぶり出すことだ。
単純に、もう一度出会いたいと思った。こんな形でなく、こんな隠し撮りみたいにして切り取られた写真なんかではなく、出会いなおしたいと思ったのだ。
彼女の横顔と涙を切り取った写真を革ジャンのポケットに滑り込ませて、バイクのキーを取る。家から編集部までは30分、深夜ということを考えれば20分で着くだろう。



今度は正面から、彼女の涙を見てみたい。
そんな考えはとりあえず脇に退けておいて、玄関の扉を開けた。