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昨日の夜から降り続けている雨の中を、職場に向かって歩く。 職場は家からほど近い小さな書店だ。高校生の頃からアルバイトしていたそこに、店長の厚意で卒業後そのまま就職できることとなった。全国展開しているような大きな書店ではないけれど、程よい広さとそう悪くない品揃え、親切な店長。足りない物なんてない。そもそも本が好きだから書店でアルバイトしようなんて思ったわけだし。 普通に、普通だ。それが一番いい。 生まれてからこの街以外で暮らしたことはない。高校の友達の中には進学や就職のために街を出たひとたちがいる。この街だって都心だし、そう不便はないけれど、もっともっと華やかな街に憧れて飛び出していったひとたちもいる。だけど私にはこの街でよかった。この街がいいわけではないけど、この街でいい。 不変、がいい。この普通が、不変であればいいと思う。何も変わらないで。なんなら、時空が捻じ曲がって永遠に今日を繰り返す、なんてSFまがいのことになったってかまわない。つらいことも苦しいこともあるけれど、それすら不変であるなら、この先もっと悪いことが起きることもない。だったらそれでいいと思う。 「当たり前の日常が、実は一番幸せだった」という言葉が本当かどうかなんて、まだ知りようもない。だけど、絶対にそう感じる日は来る。 もうその足音は聞こえているのだから。 『容態が良くない』 お母さんが入院している病院からそんな電話を受けたのは、昨晩のことだ。思わず言葉を失った私に、『今日や明日にどうなるというわけではないけど』と電話の向こうで医者が補足した。 『とりあえず、早めに伝えておこうと思って連絡しただけだから。明日詳しいことを話す』 お母さんと同じくらいの年齢の医者は、毎日お見舞いに行く私のことを気にかけてくれていた。母一人子一人の事情を知っているからだろう。穏やかな人柄で患者からの人気もあって、職員からの人望もあるらしい。1年前、お母さんが初めて倒れて運び込まれた病院がこの病院でよかったと思う。 お母さんの病名は末期ガンだ。長くは、ないという。カルテを見せられて訳がわからないままそう告げられたのは、10日前のことだった。『今日や明日にどうなるというわけではないけど』というのは、つまり明後日には何かが起こるかもしれないということだ。おそらくそれを伝えるためのワンクッションとして昨晩の電話を寄越したのだと思う。心の準備をしておけと言いたかったのだろう。 心の準備。 だけど何をすることが心の準備になるのだろう。眠れないまま布団に包まって考えたけど、朝になってもわからなかった。 今も、わからない。 書店に着いて、裏口から入る。店長はもう来ていて、納品されたばかりの今日発売の雑誌の紐を解いていた。 「おはようございます」 「おはよう。あ、傘、本に当てないようにね。濡れちゃうから」 「はーい」 指定の制服はないので、コートだけ脱いでエプロンをつけ、店長の隣で同じように雑誌の入った箱や袋を開いていく。 「今日は雨だからお客さん少ないかな」 「そうかもしれませんね」 「今日もお母さんのお見舞い行くの?」 「はい」 「じゃあ店が暇だったら1時間くらい早くあがっていいよ」 「すみません、いつも」 「いつも店が暇みたいな言い方しないでくれるかな」 そう言って笑う。店長は、いいひとだ。 10分ほどその作業を続けていると、店長が「あれ?」と声を上げた。「部数間違えてましたか?」そう尋ねても店長は答えない。作業を中断して顔を上げると、店長は眉間に皴を寄せて私を見ていた。 「・・・どうかしました?」 店長は私の顔から自分の手元に視線をずらし、「これ」と呟くように言う。それにつられるように店長の手元を覗き込んで、絶句した。 それは人気のある文芸誌だった。その表紙を飾るモノクローム加工された写真には一人の女の横顔が写っている。 肩甲骨くらいまでの長さをした髪が風にあおられてふわりと広がっている。 伏せられた目。 情けなく下がった眉。 少し丸い鼻。 きゅっと結ばれた口。 背景の空は加工のせいだけでなく、ただただ黒い。 そうだ、覚えている。あの空は、星ひとつ見えない、何も無い夜空だった。 その写真の中で女は泣いていた。 女は、10日前の私だった。 10日前。 仕事帰りに病院に寄ってお母さんと話しているうちに面会時間が終了し、また明日と言い合って病院を出ようとした私を医者が呼び止めた。 個室で医者が30分ほどかけて説明してくれた内容はほとんど頭に入ってこず、私は無知な子供のように「死ぬんですか」とだけ尋ねた。嘘だと思った。それか夢だと思った。30分前まで一緒に話して笑っていたお母さんの容態がそんなに悪いだなんて、信じられなかった。だから嘘だと言ってほしかった。夢であってほしかった。 だけど、医者は嘘をつかなかった。 「できることは全てした。だけどもう手遅れだった。もう彼女は、いつ死んだっておかしくないと言える」 どこを探しても、嘘なんてありはしなかった。 それから病院を出て、どこをどう歩いたのかわからない。風の冷たさも感じない。何かにぶつかっても、痛みも感じない。むしろぶつかったことにも気付かない。ただ歩いていた。何も無い夜空だった。願いをかける星すらも、そこにいてくれなかった。 涙は見せたくなかった。 お母さんにも医者にも、誰にも。悲しみは伝染してしまうから。そこに愛という名の絆があれば、尚更。お母さんは私を愛している。私もお母さんを愛している。だから私が悲しめば、お母さんも悲しむのだ。それは、いけない。それではいけない。そう遠くない未来、お母さんも私も、それぞれのたった一人を失くして、一人きりになる。 一人。 まるでこの夜のように、一人きり。 お母さんが、死んでしまう。 堰を切ったようにこぼれだした涙は目を閉じても途切れることはなく、だったらもう全て流しきってしまおうと思った。 倒れたお母さんの真っ白な顔を見たときに感じた不安も。ついさっき医者の話を聞いたときに感じた奇妙な浮遊感も。星一つ見えない夜に感じた孤独も。そして、お母さんが死んだら感じるであろう、悲しみも。 全てを今、流しきってしまおう。そして、明日からはもう泣かない。そう思った。 10日前。 私は、そうして泣いていた。 「・・・モデルのバイト、してたの?」 店長の言葉に我に返った。 「違います!・・・こんなの、どう考えたって盗み撮りです・・・」 芸能、ホビー、カルチャーを幅広く扱うこの文芸誌は、大手の出版社から発行されているとてもメジャーな物だ。今この瞬間、全国の書店にこの文芸誌が置かれている。もうすでにどれだけの人間の目に触れてしまったかもわからない。 もしお母さんがこの雑誌を、たとえば病院の売店で見てしまったら。たとえば私の写真であることに気づいた医者や看護士が見せてしまったら。 お母さんが、泣いている私を見てしまう。 「・・・だけどこの写真、あの大倉忠義が撮ったって書いてある」 「・・・大倉忠義?」 「知らない?」 文芸誌をパラパラとめくりながら言う店長にうなずく。そういえば店長は写真を趣味としていつも語っていた。私には興味のない分野だったから、半分以上聞き流してきたのだけれど。 「写真に興味なかったら知らないか。だけどすごく有名な写真家だよ。・・・あ、この人だ」 店長が開いたページを私に指し示す。端整な顔立ちの青年がインタビューに答えている写真がそのページに掲載されていた。愛想も愛嬌もない受け答えが並ぶインタビュー記事。写真に対するストイックな思いを語っているが、真面目というよりむしろインタビュアーやこの記事を読む読者を含む全ての人間を見下しているかのような印象を受けた。 「父親がまたすごく有名な写真家で、だから出てきたばかりの頃は親の七光りだなんて言われてたみたいだけどね・・・だけどほら、こっちのページのこの写真とか、全部彼が撮った物だよ」 そう解説をくれながら店長が文芸誌のグラビア部分を見せてくれた。 公園の遊具、廃墟、海、夕焼け。さまざまな景色を切り取ったその写真たち。 景色が、世界から逸脱しているように見えた。こんな景色は日常のどこにでもあるようなものなのに、なぜかこの世に存在しない景色なのではないかと錯覚する。 そんな不思議な非現実感を漂わせるそれらの写真は、素人目でもわかるほど、確かに美しかった。 「わかるでしょう?」 店長の言葉に、うなずくことしかできない。 結局、親の七光りなどではないということだろう。稚拙な言い方をすれば、きっと彼は、天才だ。そう思わせるだけのものが、そこにはあった。 「・・・でも、」 でも、それとこれとは話が別だ。 どんな立場のどんな有名な写真家と言っても、本人の許可もなく撮影した写真を、これまた本人の許可なく雑誌の表紙にしてしまうなんて、許されることではないはずだ。私は写真だけでなく法律関係にも疎いけれど、これが肖像権の侵害につながる行為であることくらいはわかる。 そもそも、どうして私を撮ったりしたのだろう。それだけ有名な写真家ならば、モデルでも俳優でも、いくらでも被写体に名乗りを上げる人間はいるはずなのに。 「しかし驚いたなぁ。『人間嫌いの大倉忠義』が初めて撮影した人物写真のモデルがさんだなんて」 店長の言葉の意味は、すぐには理解できなかった。 「・・・『人間嫌い』って?」 「この人は、人物写真は一切撮らない写真家なんだよ」 景色も物も植物も動物も、水も光も空気すらも。およそこの世にあるもの全てを完全に自分のもののように切り取ることができる写真家なのに、人物だけは撮らない。どんな著名人からの依頼でも、頑なにそれを拒否する。まるで信念のように、それだけは崩さない。 人物写真が嫌い。 人間が嫌い。 『人間嫌いの大倉忠義』。 そう店長は語った。 「何日か前から触れ込みはあったんだ。ようはネタバレなんだけど。この雑誌に大倉忠義初の人物写真が掲載されるっていうのが、彼のファンや写真愛好家たちの間で噂になってた。だからみんなが・・・僕だって、この雑誌の発売を心待ちにしてたし、売れ行きだって相当数見込めるから発注数をいつもの倍にしといたくらいだし」 それはそうだろう。ファンならば今まで見たことのないジャンルの写真が掲載されるとなれば是非見たいと思うはずだ。 しかし、だとしたら尚更、この文芸誌がお母さんの目に入る確率は上がってしまうことになる。 多くの人がこの文芸誌を手にすればするほどに、多くの人の目に触れれば触れるほどに。 おそらく、今この時だって。 「・・・店長、ごめんなさい。中抜けさせてもらえませんか」 「え?」 とにかく病院へ連絡を入れて、これがお母さんの目に入ることのないようにお願いしなくては。 それから。 「出版社まで行って、これの発売中止をお願いしてきます」 エプロンを外しながら、グラビアをもう一度横目でちらりと見やる。 不思議な非現実感を漂わせる写真たち。表紙となっている私の写真だって例外ではなく、そこに写っているのは確かに私なのに、私じゃないような感覚。 まるで彼の切り取った四角い世界に、閉じ込められてしまったかのような、感覚。 そんなのは、嫌だ。 |