携帯電話が鳴ったのは、午後10時をまわったときだった。













あの後、私はまず病院に電話をした。雑誌の名前を告げ事情も大まかに説明し、それがお母さんの目に触れることのないように頼み込んだ。医師や看護士が意識して見せないようにしてくれれば、そもそもお母さんには見舞い客なんて私しかいないのだからそれだけでだいぶ効果はある。確認してもらったところ病院の売店はまだ品出し中ということで、朝から今までの間にその雑誌をお母さんが目にしていることはほぼありえないということだった。ひとまず胸をなでおろしたが、まだすっかり安心というわけにはいかない。
電車に飛び乗って、あの文芸誌を出している出版社へ向かった。そしてその電車内で私はまた目を見張ることとなる。中吊り広告の一枚に、自分の姿があった。だが割と混んでいる車内であの写真は横顔、しかもモノクロだ。周囲に気づかれたりはしなかったはず。だけど、あまりに心臓に悪い光景だった。
そして衝撃だったのが、電車に乗っている最中に来た4通のメールだった。いずれも高校の同級生からだったけどその内容はあの文芸誌の表紙に関する物で、思わず返信もせずに携帯を閉じた。



普通と不変が、失われていくような気がした。
そんなものはないとわかっていたのに。



電車を降りて、文芸誌に書いてあった住所を頼りに出版社へと向かう。
立派な社屋にはもちろん受付があったが、持参していたあの文芸誌を差し出して担当者に会わせてほしいと言うと、受付の女性はすぐに私が写真の中の女と同一人物だと合点し取り次いでくれた。まさしく顔パス。そんな冗談を言っている場合ではないけれど。



そして「エレベーターで7階まで上がってください」という言葉に従い7階に到着、エレベーターが開いた瞬間に満面の笑みで迎えてくれた男に、まずはたじろいだ。
・・・これが、大倉忠義?
ってゆーか、これで人間嫌い?
しかし話を聞けばやはりというか、男は大倉忠義ではなくただの編集者ということだった。挨拶もそこそこに、私は今月号のこの文芸誌の発売中止と回収を求めた。失礼とは思ったが、こちらにも事情がある上あきらかに出版社側のほうが立場は弱いはずだと判断したため多少強気に出たのだ。


予想通り、編集者の男はあっさりと頭を下げ、写真の無断使用を詫びた。
だがその後に彼は、自分は編集長ではなく、しかも編集長は席を外しているからすぐに判断できることではないと言った。
「せやから申し訳ないんですが、折り返しご連絡させていただいてもよろしいですか」
「・・・今日中に判断することはできるんですか?」
「それはもう、編集長が捕まり次第最速で協議させていただきますし」
「お願いします。本当に困るんです、こういうの」
「・・・ってゆーのは、」
編集者は下げっぱなしだった頭を上げて、私を伺い見る。その目にたじろぎ、思わず身構えた。
なんだろう。
この人は何を考えているんだろう。
こんな目の人には、出会ったことがない。
この人は、



「やっぱりあなたは、どこかの事務所に所属されとるタレントさんなんですか?」
「は?」



思考を遮断させた的外れな質問に面食らったが、すぐに「そんなはずないでしょう」と否定しておいた。
「あ、違うんや。いや、実物見たら写真より何倍も可愛らしかったからなんですよ。気にせんといてくださいね」
「いや、・・・・・・・はぁ」
「でも・・・だったら、なんでそんな急がはるんですか?」
「・・・・・・・」



この人は、苦手だと思った。



私が黙っていると、編集者はすぐに「言われへん事情やったら無理にはお聞きしませんし。失礼しました」と作り笑顔を浮かべた。
「とにかく、できる限り急ぎます。結果が出次第ご連絡差し上げますんで、ここにお名前と電話番号を書いていただいてもよろしいですか?」
差し出されたメモ用紙に名前と携帯電話の番号を書いて返すと、編集者は「さんですかぁ」と意味もなく私の名前を復唱した。
「・・・何か?」
「いやいや、やっぱ可愛らしい人は可愛らしい名前しとんねやなぁって思っただけ!不快に思われたのなら申し訳ありません」
・・・うん、やっぱり苦手だ。
慇懃無礼、と言おうか。丁寧なくせに、どこか人を見下しているかのような態度。しかし彼の言葉のおかげで、さっきから感じているもやもやした感情の名前がわかった。



不快、なんだ。



そして彼に何度も念押ししてから、私は出版社を後にした。その時点で時刻は午後1時。とりあえず職場に連絡をし、また仕事に戻ることにした。



店長は気を使ってあの文芸誌を店内でもあまり人目につかない場所に配置してくれていた。しかしそれが逆効果となり、見つけられなかった客がわざわざレジまでその場所を聞きに来てしまうという事態になってしまった。売らないわけにはいかないのでその場所を教える、すると客は見つけ出したその文芸誌を当然またレジに持ってくる。2度目のコンタクトとなればということで、数人の客には私が表紙の人物であることがばれてしまった。他人の空似だと切り抜けたものの、そのたびにぞっとした。
一体今、何人の人間がこの雑誌を見ているんだろう。
それが、恐怖だった。
なのでその様子を見かねた店長の「今日はもういいよ」という言葉に素直に甘えて、いつもよりだいぶ早めだけれど私は病院に向かうことにした。


店から病院までの、バスで20分の距離ですら、何か恐ろしかった。
何かが変わっていっている気がした。
誰かが私を見ている気がした。
たった一人で流す涙すら見逃してはくれない、誰か。






病院では、昨夜の電話での予告通りの話が待っていた。心の準備なんて言葉は慌しい今日にすっかり流されていたが、それでもやはり医者の言葉は驚くほどすんなりと私の耳と脳に届いてきた。



「薬の投与をやめようと思う」
結論から医者は言った。
「これ以上は無駄ということですか」
「無駄にはならない。だけど国内の薬がこれ以上お母さんに効くとは言えない。副作用で苦しみ続けても効果が得られないのなら・・・」



「・・・せめて安らかに死なせてやろう、ということですね」



医者は鎮痛な面持ちで頷いた。
国内の薬が効かない。言い換えれば国外の薬ならまだ可能性はあるということだ。しかし、それは日本では未承認の薬。保険が利かない。莫大な費用がかかってしまう。それを支払うことは、ただの書店の店員である私には不可能だ。



だったら、可能性なんてもう、ゼロじゃないか。



あぁもう、今日は何一ついいことがない。
冷静なはずなのに、ぐしゃぐしゃになっている頭の中を整理する手段すらわからない。
「わかりました」
しかし私はそう答えた。何もわかっちゃいないし、何にも納得できない。それでも、そう答えるしかない。他の答えなんて知らない。死に抗える理由なんて、これまで読んできたどんな本にも載ってはいなかった。



医者との話の後、お母さんの病室に寄る。
お母さんは私の姿を見て、薬の副作用でむくんだ顔を輝かせた。
たくさんの話をしてくれた。仲のいい看護士の話。痴呆症の患者の話。小児科で開かれた小さなパーティーの話。お母さんの世界は、今やこの病院だけだった。
散歩が好きだった。動物園も好きで、よく平日でも私に学校を休ませて連れて行った。車の運転が得意だった。
どこにだって私を連れて行った。
どこにも、私を置いて行かなかった。
なのに、今はベッドの上で、私が来るのをただ待っていることしかできなくて。
私はそんなお母さんを、毎晩病院に置いて行って。



何も、できない。
何もできなかった。何一つ、お母さんにしてあげられなかった。
お母さんの知らない散歩道を見つけて、そこを一緒に歩きたかった。
最近お母さんの大好きだったきりんに赤ちゃんが生まれた、あのいつもの動物園に行って、あの頃みたいにアイスクリームを食べながら何時間もきりんたちを眺めていたかった。
免許を取って、最初のドライブはお母さんと行こうと思っていた。



どれ一つとして、叶えることができなかった。



そう考えると喉の奥が潰れたように苦しくなった。
泣かないけれど。絶対にお母さんに涙なんて見せない、だけど。悲しくて切なくて情けなくて仕方がなかった。



帰り道は、いつものように真っ暗。
泣いたのは、写真を撮られたあの日が初めてではなかった。これまでも何度か、同じこの人通りの少ない道で泣いたことはある。家にはぼんやりとお母さんの気配があるから、なんとなく泣けなくて。
完全に一人きりのこの帰り道でなら泣いたって誰も見ていないと思っていたけれど、それは今日、というか十日前に覆された。だけどそれにしたって許せないという気持ちより、それすら悲しいという気持ちが大きかった。



一人で泣くこともできないのかと思うと、どうしようもなく悲しかった。



家についてお風呂に入って、ここでなら、と思ったけれどそのときにはすでに気持ちは妙に落ち着いていて、絞るように目をかたく閉じても涙は出てこなかった。















そしてお風呂から上がって、午後10時。



鳴り響く携帯電話に表示されるのは知らない番号。出版社の人かもしれないと思った。今日中に連絡をすると言っておきながら、今まで何の連絡もない。
しかしあの編集者に渡された名刺を見ると、そこに書かれている番号と表示されている番号は違う。では話に上った編集長だろうか。それとも他の誰かかもしれない。またあの文芸誌を見た友達が電話してきたのかもしれない。それだったら嫌だな、そう思いながらも出版社からの電話である可能性があるからには電話に出ないわけにはいかない。そのせいで発売中止の手筈が滞ったら今日の行動が半分くらいは無駄になってしまうから。



だから私は、通話ボタンを押した。



『もしもし、さんの携帯電話でよろしいですか?』
話し出したのは低い男の声だった。あの編集者ではないが、あまり耳に馴染みのない関西弁のような発音は彼と共通している。
「・・・はい」
『えーと、初めまして、大倉忠義です』
その名前を聞いて、小さく息を呑んだ。まさか私を撮った張本人から電話が来るとは予想していなかったのだ。だけど動揺したことを悟られるのがなんとなく嫌で、「あの雑誌、どうなりましたか」ととりあえず話を進めることにした。
『それが編集長さんと連絡取れへんみたいで、実際どうにもなってないっていうのがほんまらしいですよ。俺は出版社の人間とちゃうから詳しいことはわからんけど』
少しだけ予想できていた答えに、しかし落胆した。同時に浮かび上がる疑問。
「それなら何の用で?」
『謝ろうと思って』
私の質問に大倉はあっさりと答えた。そのことに正直、少し驚いた。あの文芸誌に載っていたインタビューでの彼はどこか高圧的で、そのイメージから大倉は素直に謝るようなタイプの人間ではないと思っていたのだ。なんだかんだ言い訳をつけて有耶無耶にしてしまう、もしくは張本人のくせに我関せずといった態度をとるだろうと予想していた。
『編集部にいらした時、怒ってはったって聞いたから』
まぁそら怒りますよね、と独り言のように小さく呟いて、『勝手なことをして、申し訳ありませんでした』と、彼は謝った。
本当に謝るんだ、と吐息だけで呟いた声はおそらく彼には聞こえていないだろう。
だけど、私は謝ってほしいわけではない。というよりは、謝ることなんかよりももっとしてほしいことがあるからだ。だから許す。そんなことは、もういい。いいから、早くこれを終わらせて。



『一度お会いして、きちんと謝罪したいんですが』



だけど、まだ終わらない。