|
電話に出た彼女は俺が謝罪したことに驚いたようだった。 世間的な立場や評価は別として、俺だって成人している社会人だ。自分が圧倒的に悪い場合に謝罪することくらい、なんのことはない。それくらいでプライドが傷ついたり自己嫌悪したりすることもありえない。 それが必要なことならば。 ・・・結局、それは反省とは違うのだけれど。伝えたい部分だけ伝わればいいのだ、言葉なんて。謝罪の言葉さえ伝われば、その裏で俺が何を思っているかなんて向こうに伝える必要はない。どうせ他人の考えていることが100パーセントわかる人間なんていないのだから。 『・・・これ以上あの雑誌が出回らなければ、それでいいんです。謝ってほしかったわけじゃないとは言えませんが、本当に今は、それだけで』 そう彼女は言った。 お人好し、と声には出さずにただ思う。それは悪いことじゃない。寛容なのか、逆によほど切羽詰まっているのか知らないが、そんなにあっさりと他人を許して。彼女は自分自身がどれだけの被害をこうむったのかも、全てはわかりきってはいないのかもしれない。少なくとも訴訟や慰謝料などといった言葉は彼女の頭の中にはないのだろう。その点であの幼馴染の心配は杞憂に終わっていると言える。 とすれば、あとは俺の話だ。 「一度お会いして、きちんと謝罪したいんですが」 そう切り出すと、『・・・でも』と彼女は少し迷うそぶりを見せた。 それがだめなのに。そんな風に迷いを見せれば、つけ入られてしまうだろうに。少なくとも俺はつけ入る。罪悪感も駆け引きもなく、つけ入ることができる。 俺はそういう人間で、 だから、彼女はお人好しなのだ。 「明日、お仕事が終わったあとでもどうでしょう?俺は何時でも合わせられますし、場所だってさんの都合のいいところまで出ます」 『・・・・・・』 「お願いします。そのときまでには俺が責任持って出版社にもちゃんと話つけますから」 口八丁だ。もちろん出版を差し止めるような権限は俺にはない。だが状況から考えて、今のところはうまいこと行方をくらませている編集長はおそらく一時的だとしても出版を止めるという処置を打つだろう。 「明日お仕事が終わったら、電話してくれますね?」 伺うのではなく、同意を求める。こんな言い方をされると日本人は断りにくくなるそうだ。そういつか本で読んだことがあった。 そしてその通り、彼女は随分ためらった様子だったが、小さな声で『はい』と答えた。 最初から勝てる勝負だったのだ。俺が彼女に電話をかけ、彼女がそれに出たときから。彼女が一般人であるという時点で、雑誌というジャンルはこちら側のフィールド。俺は所詮カメラマンだけれど、それに関する知識も常識も彼女とは比較にならないほど持っている。いわばホームゲームのようなものだった。 それに加えて相手はお人好し。お人好しは、そうでない人にはどうしたって勝てない。優しい人間は、そうでない人間にいろいろなものを搾取されるだけだ。いつだって、いつまでも。 そして、声にも出さずに恨むから、そんなものは聞こえない。 翌日は晴れだった。 朝一番にバイクで編集部に向かう。昨日丸一日行方をくらませていた編集長は何食わぬ顔でそこにいた。発売中止について尋ねると、予想通り、出版を一時取りやめる判断を下したということだった。しかし今更全国の書店から雑誌を回収することは不可能だから、在庫がある限りは販売させるという形にはなるらしい。一応理由を適当につけて販売の自粛を求める連絡はしたが、前日にあれだけ売れている雑誌だ、そう簡単に店頭から姿を消すことはないだろう。 彼女からしてみれば不本意かもしれないが、これが最善の処置だ。 しかし俺が今日彼女に会うことを話しついでに伝えると、縋りつかんばかりの勢いで編集長は俺に彼女の説得を依頼してきた。彼女に、自身が表紙であるあの雑誌の販売許可を取って来いということだ。昨日の反響が予想以上のものだったらしい。このまま絶版では損害が大きすぎると。所詮皮算用だが、その予測を立てるのに十分な状況というわけだろう。 この問題のそもそもの発端は俺が勝手にあの女の写真を撮ったことにあるが、それについては深くは言及されなかった。問い詰めた挙句に俺がこの出版社との関係を絶つことを恐れているのだろう。人気フォトグラファーの特例といったところか。自分で「人気」などと言うのも馬鹿らしい話だが、他人や世間がそう言うのならばそういうことなのだろう。しかし俺には興味のない話だ。人気や支持を求めて写真を撮っているわけでもないし。 編集長の依頼を適当に請け負い、編集部を後にする。今日はあの幼馴染は休みのようだし、そもそもいたところでたいした用はない。やんややんやと騒がれてうるさいだけ。 バイクにまたがり、目的地は設定せずにとりあえず走らせる。散歩のようなものだ。カメラはいつだって持ち歩いているし、フォトスタジオを使った撮影なんてほとんどしたことがない。どこかで何かを見て何かを感じれば、いつだってそこはスタジオで、なんだってそれは被写体になる。何が撮りたい、どう撮りたいなんて欲求は生まれない。ただ、現像してできあがった写真を見ると、その被写体がまるで自分のものになったかのように感じて、ほんの少しだけ満たされる。写真を撮り始めた理由をインタビューで聞かれたことはあるが、それだけの理由なのだ。 なんだって、手に入れたくて。 俺だけの世界に切り取ってしまいたい。 その理由に才能と感性と運が付属して完成したのが、フォトグラファーの大倉忠義だ。 そう考えれば、俺は幸福なんだろう。したいことに必要な才能が備わっている。そのために他の何かが欠けていたとしても、それさえあれば生きていける。だいたいの人間はそうじゃない。 好きなことを職業として、自分勝手に時間を費やして、好きに生きている。誰にも縛られず、誰も縛り付けずに生きてこられた。そんな人間、一握りだろう。 だけど俺はたぶん、生まれて初めて、ひとを一人縛り付ける。 あの幼馴染にはああ言ったが、自覚くらいはしている。俺はあの女に執着しているのだ。どこに惹かれたのかなんてわからないけど、確実に。 名前は知っている。声も知っている。泣き顔も知っている。でも、ただそれだけの赤の他人。しかしどうだろう、逆にそれ以外何も知らないからこそ惹かれるのかもしれない。彼女の全てを見たら、この関心は消えうせるのかもしれない。 それはそれでいい。それが、いつもどおりの俺だ。何も変わらず、これまでどおりに生きていくだけのこと。彼女と出会わなければ、そもそもこんな脱線もしなかっただろうし。 だけど、出会い直したら。 どうなるのかなんて、わからない。 適当にバイクを停めた。ヘルメットを外して、軽く周囲を見渡す。どこか惹かれた風景などを切り取り、またヘルメットをかぶってバイクを走らせる。それを繰り返していけば、1枚は気に入る写真が撮れている。要は下手な鉄砲も数打ちゃ当たる、と同じ原理だ。ただ次元が違うだけ。中の内から上を、ではなく上の内から最上を、探すのではなく選ぶのだ。 被写体となる物やロケーションを与えられるような仕事以外では、基本的にこのスタイルで写真を撮る。だけどそんな仕事は滅多にない。 適当に昼食をとったり休憩しながら仕事を続けていると、空がぼんやり暗くなってきた。時計を見れば17時。まだ夕方だけど、冬の空は夕焼けをすぐに通り越して闇色になる。なんとなく、その空を写真に切り取った。 闇色。 もしも彼女をもう一度撮ることがあっても、俺はまたモノクロ加工を施すだろう。 切り取られた、白と黒しかない世界に彼女を置いていたいのだ。その狭い四角の世界に、閉じ込めて。まるで蝶の標本みたいにその体をピンで刺しぬいて、貼り付けてしまいたい。胸を刺す痛みに泣けばいい。狭い世界の闇に怯えて泣けばいい。それをずっと眺めていたい。 バイクを家に向かって走らせる。 彼女から何時に電話がかかってくるかわからない。今日はこれ以上写真を撮る気分でもない。だったら、家で今日の分の写真を焼きながら時間を潰そう。そう思った。今日は気付かないうちに遠くへ来ていたし、少し疲れた。休息も必要だ。 走るうちに闇色に染まりきった空は、ただの真っ黒でつまらなかった。 |