「疲れてる?」



お母さんの言葉に、慌てて笑顔を作る。午後八時、病院の面会時間が終了するまであと30分。
「今日お店が忙しかったから。月末だからかな、いつもより混んでさ」
そのありきたりな言い訳を、素直なお母さんはまっすぐに信じる。そして真剣な顔で説教する。女手一つで一生懸命働いて私を育ててきたお母さんは、仕事に対してとても真面目だ。
仕事はどんな職種であれ疲れるものだし、お給料もらっているのだからそれに見合う分だけしっかり働く義務がある。だけど真面目にちゃんとした仕事をいれば、いつかきっとよかったと思えるときが来るから。
体を起こしてそう言うお母さんはなんだかいつもよりも背筋が伸びていて、元気だった頃の姿を思い出す。だけど、頬の肉は削げ落ちていまっているし、目はぼんやりと腫れている。思い出の中のお母さんとは、その姿はあまりにかけ離れてしまっていた。
それでも、目をそらしちゃいけないんだ。
だって、会えなくなる。もう二度と、その顔を見ることができなくなる。そんなタイムリミットがあるのだから。
「・・・・・・そうだね」
しっかり見つめて、話をして、これ以上後悔を残さないように。
「あんた、彼氏とかいないの?」
「え?」
唐突にお母さんが言った。
「何、いきなり。びっくりするよ」
「お母さんにあんたがいたみたいに、あんたにも誰か大事なひとさえいれば、たとえば仕事で疲れちゃっても頑張れるでしょ」
ロマンチストめ。
そう思ったけれど、お母さんの言葉は嬉しかった。言外に、私がお母さんにとって大事な存在だったと言ってくれたから。何も役に立たなかった私だけど、お荷物なんかじゃなかった。小さくて暗い私でも、お母さんにとっては支えになれていた。それがわかって、嬉しかった。
「で、いるの?いないの?」
「いないよ、彼氏なんて」
そう正直に答えると「隠してるんじゃないの、あんた」なんて疑り深そうな顔を作って言うから少し笑ってしまう。お母さんとこんな話をするのも、やっぱり嬉しかった。
「残念だけど、隠してもないよ」



だけど、お母さんがこんなことを言うから。



「あぁそう。・・・花嫁姿、見たかったのに」



息が一瞬止まって、幸せだった気持ちが凍りつく。
そんな言い方、しないでほしい。もう見られないのだと諦めるような、残念そうな顔をしないで。
「うちにはあんたの結婚資金貯めるような余裕なんてなかったけど、あんたがいざ結婚するってなったら、いろいろしてあげたかった」
だけどお母さんは続ける。
「そういうのに関してあんた、何も知らないでしょ?だから式場とかドレスとか、一緒に選びたかった。きっとすごい悩むのよね、ドレスなんて選ぶ時。いろいろカタログとか見て、試着して。お色直しするならカラードレスだって選ばなきゃならないし、すごく大変で面倒くさいのよ。でもそういう時間が、すごく楽しいじゃない」
うつむいて白いシーツを見つめ、少しだけ笑う。自分の結婚式を思い出しているのだろうか。それとも、想像しているのかもしれない。
見たことのないその未来の光景を、まるで夢のように思い描いて。
「相手のご両親にだってちゃんと挨拶して、あんたがどれだけいい子かっていうのを全部伝える。お姑さんと仲良くなれるようにね。それで、あんたが幸せになるまでちゃんと見届けて。・・・そうやって全部してあげたかったな」



それが、夢だったのだろう。



「それだけが、後悔」



お母さんはそう締めくくって、「ごめんね」と呟いた。
私は、何も言うことができなかった。

















病院を出ると、冷たい風に耳の奥がキンと痛くなる。
大倉との約束を延期しようかと思った。勝手な話だけど、とてもそんな気分じゃない。
だけど、この時間になってのキャンセルは少し申し訳ないような気がする。とは言っても向こうが直接会いたいと言ってきた以上私が申し訳なく思う必要なんてないのだ。こちらの都合に合わせるべきなのは向こうなのだから、延期だって遠慮なく言えばいい。
・・・だけど、そうしてこの先しばらくズルズルと連絡を取り合うことを考えたら、今日会って全てを終わらせてしまったほうが気持ちが楽だ。そう、申し訳ないとかそんなんじゃなく、ただ早く終わらせたいだけ。
そう無理に思い込んで、携帯電話を取り出す。



その瞬間、マナーモードにしていた携帯が震えだした。そのタイミングに驚いて画面を確認すると、昨夜見た番号が表示されている。
大倉だ。
何時でもいいから電話しろと言っておきながら、待ちきれなかったのだろうか。



「・・・はい」
『もしもし、さんですか?』
「そうです。連絡、遅かったですか?」
『いや、そういうわけやないんですけど・・・・・・あ、もう大丈夫ですか?都合』
「はい、まぁ」
『今どちらにいらっしゃいます?動かすのも悪いんで俺出向きますから』
「浜松町です」
『あ、ほんまに?うち目黒なんで意外と近いですね。ならすぐ向かうんで、喫茶店でも入って待っといてください。また電話します』
「・・・・・・わかりました」



電話を切って、ひとまず浜松町駅に向かう。電車で来るのか車で来るもかわからないけど、どちらにしろ駅前のほうが落ち合いやすいかと考えてのことだった。
病院から駅までの距離は徒歩で10分弱。向かい風にコートのボタンを留めて歩いていくうちどんどん憂鬱になってきた。一歩踏み出すごとに、気持ちが沈む。だけどもう間に合わない。すぐ終わるすぐ終わる、と自分に言い聞かせて、駅前のカフェに入った。
壁際の席に座って紅茶を注文した。エプロンをつけたウェイトレスが運んできた紅茶に手をつけず、何も考えずに待つ。



お母さんのことも大倉のことも雑誌のことも、考えることが多すぎてむしろ考えたくない。混乱、している。短い期間にいろいろなことがありすぎたのだから、混乱して当たり前だろう。だから何も考えたくないのだ。休みたい。投げ出したい。つかの間でもいいから、それくらい許してほしい。



せめて、紅茶が冷めるまで。
















そのつかの間をあっさりと終わらせる電話が鳴った。



停止させていた意識をふわっと浮上させて、電話に出る。相手は確かめるまでもない。
『浜松町の、駅の近くですか?』
「はい、駅の近くにあるAerisっていうカフェで」
『あ、そこならわかります。じゃあすぐ着きますんで』
初対面なのに、特徴を言う必要もない。向こうは著名人だし、彼は私の写真を持っている。お互いの特徴どころか顔までしっかりわかっているのだからそれは当たり前だが、何かおかしいと思う。
こんな出会い方は、何か、おかしい。



だけど、カフェのドアが開いた。