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8時半をまわっても、彼女からの電話はなかった。 写真を焼いて時間を潰そうと思っていたけどなんとなくそんな気分でもないから、DVDを観て時間を潰していた。だが、2時間に渡るその洋画が終わっても連絡がない。 ・・・逃げる、か? ふとそんなことを思った。逃げるという言い方は極端だとしても、迷っているのかもしれない。もともと半ば強引に取り付けた約束だ。彼女が電話を切った後にそれを後悔してキャンセルする可能性だって十分にある。押しに弱いところから考えて彼女はきっと優柔不断な性格だろう。キャンセルはしないにしても、延期くらいは考えそうだ。 「・・・・・・」 少し考えて、静かなままの携帯電話を手に取った。一応先手を打っておくか。そう思って、発信履歴を開く。 呼び出し音は意外とすぐに途切れた。昨日と同じ声。当たり前だけど。 浜松町にいるということを聞き出して電話を切り、バイクで向かう。 どこか気持ちが逸っていた。早く会いたい、わけではないはずだけど。待たせているのが申し訳ないから?いや、そんなの普段は気にもならない。 ・・・となるとやっぱり、逃がしたくないからということか。そんな思考に苦笑い。必死すぎやろ。 そうこう考えているうちにバイクは浜松町の駅前に着いた。ヘルメットだけ外してもう一度電話をかける。駅のすぐ隣にある小さな喫茶店に彼女はいると言う。Aeris。目の前だ。 パーキングに入れるのも面倒だからその小さな店に無理矢理バイクを横付けして、今時手動のガラス扉を押した。 目線を巡らせるまでもない。 彼女は壁際の二人掛け席で、最初から俺を見ていた。 その席に近づくと、彼女は律儀にも立ち上がって軽くお辞儀をした。あの幼馴染が言っていた「思ったより背は低かったけど」という感想の意味がわかった。しかしそれより、 ・・・こんな顔だったのか。 あの写真は暗闇の中、しかも横顔だったからいまいちわかりにくかったけど、明るい店内で見たら彼女は思ったよりも童顔だった。その顔に不釣合いな無表情は、怒りのせいだろうか。まぁそれも仕方がない。そもそも俺は今日、一応、謝罪しに来たわけだし。 「・・・初めまして。大倉忠義です」 「・・・初めまして。です」 互いに名前を名乗ったところで席につく。テーブルの上にはが注文したらしいがあまり減っていない紅茶。ウェイトレスが近寄ってきたのでコーヒーを頼んだ。そのコーヒーが運ばれるまでの数分間、どちらも口を開くことはない。 なんか、別れ話する前みたいな雰囲気。 場違いにもそう思った。まぁ真剣な話、というカテゴリーに入れるならあながち間違ってもいない。 告白するのが男の役目なら、別れ話は女の役目。どこかでそんな言葉を聞いたことがある。彼女は誰かに別れ話を切り出したことがあるのだろうか。そんな思いつめた顔をして、大きな目を少し伏せ気味にして。 そんな思考はひとまず除けておいて、ここは俺から話を切り出すところだ。ウェイトレスはしばらく用無し、近づいてくる気配もなくなったのを見計らって。 「・・・このたびはさんの写真を勝手に使用して、申し訳ありませんでした」 そう言って、頭を下げる。1,2,3,4,5秒。顔を上げるとはどこかが痛むようにかすかに表情を曇らせていた。 「・・・雑誌はどうなりましたか」 「出版の一時差し止めは決まりました。全国区の規模で売られとる雑誌なんで残念ながら回収はほぼ不可能らしいですけど、在庫分の販売自粛は各店に通達したようです」 それを聞いたはさらに顔を曇らせた。最善だったこの処置も万全ではない。だからその反応は当然だと言える。 「すみません。これでも尽力したんです」 しかしそう言うとは「そうですか。ありがとうございます」と答えた。 「・・・・・・」 まさか礼を言われるとは思っていなかったので、純粋に驚く。実際俺は何もしていない。「尽力した」なんて真っ赤な嘘。なのにあっさりそれを信じて、さらに満足いく答えでもないのに礼を言う。驚き半ば、呆れ半ば。彼女は本当にお人好しだ。 「あのー・・・よかったらなんですけど、どうしてあの日泣いとったのか教えていただけませんか?」 しかしさすがのお人好しもその質問には「関係ありません」と冷たかった。だからそれ以上の追求はやめておいて、さっきから密かに気になっていたことへと質問を変える。 「さんって、看護士さんか何かですか?」 「・・・いいえ?違いますけど、どうして」 「病院の匂いするから。あの消毒っぽい、独特の」 これは、が俺にお辞儀をしたときから気付いていた。気付いて、気になっていた。この匂いは好きじゃない。 その指摘が予想外だったのだろう、は表情をこわばらせた。・・・いや、予想外というよりは、触れてほしくなかったといったところかもしれない。触れてほしくない。内面。パーソナル。「関係ありません」と言われた涙の理由に繋がっている。直感的にそう思った。 だったら、そのこわばらせた表情には気付かないふりをしよう。 追求は、やめない。 「・・・でも看護士さんやないんですよね。ってことは、誰かのお見舞いにでも行ってはったんですか?今まで」 「・・・・・・・・・はい、家族の」 「ご兄弟ですか?」 「いいえ」 「じゃあご両親のどちらかが」 「・・・母です」 「へぇ。お母さんどうされたんですか?怪我でもされたとか」 「・・・だから・・・関係ないでしょう、大倉さんには」 ・・・なるほど、そこでストップか。ということはおそらく軽い怪我やなにかではない。一線を引きたい、内面や弱みを見せたくない相手である俺には言えないようなレベル。本日二度目の「関係ない」には、一度目のそれに比べて動揺が含まれている様子だし。 「そうですね、聞きすぎました。すみません。・・・でも大変ですね、家族が入院されてるとなると。お仕事もしてはるんでしょ?」 「・・・はい」 「何の仕事かって聞いたらまた聞きすぎになりそうやからやめときますけど・・・しんどいでしょう、仕事してからお母さんのお見舞いして、家に帰るのもきっといつもこんな時間になるでしょうし」 「・・・まぁそうですけど、仕方ないんです。母と私しか、いないんで」 「・・・・・・・母子家庭なんですね」 「えぇ、まぁ。・・・でも、だから、仕事とお見舞いと、家のこともあるし・・・雑誌とか、載ってる場合じゃなくって・・・」 「・・・せやから雑誌の販売中止してほしいって言うたんですか」 「うちの母心配性なんですよ。今回は幸い母に見つからずに済みそうですけど、・・・だからこんなことは絶対にこれきりにしてください」 お願いします、と今度はが頭を下げた。 はぁ、そう来ますか。というのが率直な感想。確かに言い分としてはこれ以上なく立派なものだ。母子家庭。たった一人の身内である大事な大事なお母さんに心配をかけたくない。なるほど、理解できる。 そしてもう一つ、理解できること。 この子、馬鹿だ。 「・・・俺じゃ力になれませんか?」 少し間をおいてからそう切り出すと、は怪訝そうに眉根を寄せた。そりゃそうだろう。「わかりました」と言って俺が引き下がる、予定だったんだろう、彼女の中では。 そんなもんじゃないのに。 世界なんて、そんなに優しくはないのに。 「お母さんの・・・病気か怪我かはわかんないですけど、入院すんのもタダなわけないし、踏み込んで申し訳ないですけど、結構経済的にきついもんあると思うんですよ絶対」 はったりだ。もしも交通事故か何かの被害者だったなら、治療費なんかはほとんどの場合が加害者側の負担でまかなえるからそう大変なことではない。 つまりこの時点で、賭けだ。の母親は怪我ではなく病で入院しているほうに賭けたのだ。それだと保険かなにかの助力があったところでたかが知れている。彼女の家庭の経済は相当に困窮しているだろう。 「・・・・・・」 そしては、否定しなかった。 「さんのお仕事も俺は知らんけど、見た感じほんまに普通のお仕事でしょ?水商売にも見えないですし、それやったらそもそもこの時間はお仕事中で会ったりもできひんはずやし」 否定はない。 「普通の仕事で平均的なお給料もらって、そん中からお母さんの入院代に治療代と薬代と、それからさん自身の生活費・・・って考えたら、失礼な話めっちゃしんどいんちゃいます?」 「・・・・・・あなたにそんな心配をされるいわれはないです」 気を悪くしたようだった。 しかし、否定も、しなかった。 「ごめんなさい。ほんまに失礼なことはわかってるんですけどね」 悪いときは、素直に謝る。 謝る、だけ。 「ただ・・・俺、母親がいないんですよ。父親はまぁ写真家でそこら中飛び回ってる健康体なんですけど、母親は俺がちっちゃいときに病気で死んでもうて。そんとき俺ほんま幼稚園入るかどうかくらいのガキやったから、何もできひんやん、もちろん。なんかしたかってんけど、何にもできやんまんま母親は死んで、それがめっちゃ悔しくって。せやから勝手にさんにそん時の自分重ねてしまってるんですけど今。やっぱ家族って大事やないですか。失くしたくない、めっちゃ大切な存在でしょ?さんは特に、母子家庭やって言うし・・・。せやからほんま勝手に感情移入して、上から目線みたくなってほんま失礼やとは思うけど、・・・失くしてほしくないなって、思って。そのためやったら俺みたいなんでも、助けになれたらええなって思っただけの提案なんで、今から話すこと、聞くだけ聞いてもらえません?」 に口を挟む暇を与えずに一気に話したら、喉が渇いた。とりあえずコーヒーを口に含む。 嘘はついていない。本当のことは言っていないけど、どれ一つとして嘘ではない。ただの下らない話だ。 砂糖もミルクも入っていないコーヒーをわざとゆっくり飲み下しながら、そっとの様子を伺う。 今だ。 逃げろ。 逃げるなら、今のうちだ。 こんな男の話になんて耳を傾けずに、さっさと立ち去れ。 そうすれば、何も始まらない。 そう、思うけど。それでもは席を立たないことも、わかっていた。 コーヒーカップをソーサーに戻して、「聞いてもらえます?」と尋ねる。彼女はうなずく代わりに、俺と視線を合わせた。大きな瞳。迷ってばかりの、弱い瞳。 ほら、本当に世界は優しくない。 |