この人は、本当は全てわかっているんじゃないかと思った。
母子家庭だということを話してしまったのはたしかに私が迂闊だった。母子家庭で母親が入院していて大変なのだということを説明して、卑怯な手段かもしれないけれど、同情を乞うた。そうすれば、もうこれ以上は何も言われないと思った。もう、放っておいてくれると思ったのだ。
だけどそれを話した瞬間に、どうしようもない後悔に襲われた。やっと自分のしでかした大きな間違いに気がついたときには、もう遅い。
彼にこの話をすべきではなかった。
結果としては、ただ弱みを露呈してしまっただけというとても不本意な状況に陥ってしまっただけだ。
何をしているんだろう、私は。









『俺じゃ力になれませんか?』



なのに、大倉はそんなことを言う。



『なんかしたかってんけど、何にもできやんまんま母親は死んで』



そうなると、言いたいのだろうか。わたしもこのままでは自分の二の舞だとでも、言うのだろうか。



『やっぱ家族って大事やないですか。失くしたくない、めっちゃ大切な存在でしょ?』



当たり前だ。そんなこと、言われなくたってわかっている。確認するまでもない。
だから私はこんなに苦しくて、現状が辛いんだ。
だって、たった一人で。
これからもずっと一人。
それはもう、わかっている。私は一人でこの生活をこなして、だけどいつかお母さんは死んで、そこからもやっぱり、一人なのだ。それくらい、きちんと理解している。
だから辛いんだ。
この先には誰もいない。
光なんて、見えやしないから。



『失くしてほしくないなって』



なんなんだろう、この人は。
私に何を思い知らせたいのだろう。
わかったようなことばかり言って、聞いたようなことばかり並べて。
手段として同情をあおったのは私だけど、こんなふうに言われたくなんてない。
何も知らないくせに。何も知らないくせに。何も知らないくせに。







「・・・もし、この話を聞いてくれるんなら」



話を区切りコーヒーを飲み込んだ大倉は、当たり前のように私と目を合わせる。
その目に映った景色を切り取る、写真家。その目で私の涙すら切り取った。何を思ったんだろう。私が一人で泣いている姿を見かけて、何かを感じたのだろうか。
そんな、温度の知れない瞳で。











「助けてあげますよ」











反射的に立ち上がっていた。ガタンとテーブルが揺れて、二つのカップが音を立てる。頭がクラクラする。脈の音が妙にクリアに耳に響く。
この人は何を言っているんだろう。
理解できない。混乱する。立ち上がったままどうすることもできない。何かを言いたいのに、何を言いたいのか自分でわからない。
ぐちゃぐちゃになった頭に、「・・・大丈夫」と大倉の声が届いた。座ったままでその手を伸ばし、いつの間にか固く握り締めていた拳をほぐすように包みこむ。
その手の温度に膝から力が抜けて、ストンと落ちるように椅子に座った。
手を離さずに、目をそらさずに、大倉は言う。





「俺が、助けたるから」





今まで、誰がそんなことを言っただろう。
優しい店長も、人柄のいい医者も、親しくなった看護士も、誰も。誰も、そんなこと言いはしなかった。
「大変だね」「頑張って」「できる限りのことはする」・・・そんな言葉は、いくつももらったことがある。嬉しかった、はずだ。わかってもらえていると思った。頑張れると思った。できる限りを尽くしてくれることに、感謝した。これ以上を求めるのは贅沢で、これ以上なんて適うわけがなくて、それくらいなら、不変に、平坦に生きていこうと思っていた。良くはならないけど、悪くもならない。不変を望んだ。こんな生活でも、変わらないことを願った。そしてそれすら適わないのならば、もう抗うことはやめようと思った。お母さんが死んでしまう。仕方がない、ことなのだ。医者にだってもうどうすることもできない。だから、心の準備をする。だから、後悔する。してあげたかったこと、してあげられなかったことを思い知って、その取り返しのつかなさに途方にくれる。だけどそれはやっぱり取り返しがつかなくて。
だから、認めて。
だから、受け容れて。
だから、咀嚼して。
だから、飲み込んで。
だから、理解して。
だから、諦めて。









だから、




「助けて」なんて、言えるはずがなかったのに。





なのに、この人は。












「・・・薬の投与を、やめたんです」
何も考えていない。言葉だけが勝手に声になって、零れ落ちる。
「もう、意味がないみたいで」
大倉は何も言わない。
「店長はいつも病院のこと優先させてくれたし、お医者さんは精一杯治療してくれたし、看護士さんたちは入院してるお母さんのこともお見舞いに行く私のことも励ましてくれて」
言っていることがめちゃくちゃかもしれない。きっと大倉には理解ができないだろう。だけど、相変わらず彼は黙ったまま、私の声を聞いている。
「・・・私、だけが」
私だけが。
「何も・・・してないまま」
何も、していないのに。



「・・・・・・お母さんが、死ぬんです」



叫びだしたいくらい悲しくて、気を失いたいくらい苦しい。それでも私は、何もしていない。お母さんの死を受け容れて、その先のことすらもう考え始めていた。
嫌なのに。
お母さんに、死んでほしくなんてないのに。
なのに、「死なないで」なんて言えない。
それでも、「死なせないで」なんて言えない。
だって誰に言えるだろう、そんなことが。誰に言えば、適うのだろう。



誰が、助けてなんて、くれるだろう。





「助けてほしい?」





なのに大倉は、静かにそう問うた。





「助けてって言うなら、助けたるよ」
「・・・・・・」
温度の知れない瞳。だけど、温かい手。
わかっている。
彼に病気が治せるわけじゃない。
彼にできることは、おそらくは延命のための協力だけだ。
解決じゃなくて、保留。
いつか必ず、お母さんとの別れはやってくる。
それが、少し伸びるかもしれない、だけ。
それに、もちろんただの資金援助では済まないだろう。もしかしたらとても無茶な要求をされるかもしれない。



だけど。



それでも。



それなら。









「・・・・・・・・・・・・助けてください」









それに縋るのが、



間違いだとは、思えなかった。