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逃げなかった。 逃げてくれなかった。 それなら俺だって、逃げられない。 は俺がうながすままに、ようやく詳しい事情を話し始めた。 母親が末期のガン。国内の薬ではもう効果が見込めない。未承認の薬では保険がきかない。 大事なところはそのあたりか。 「じゃあ、まずは50万出すわ」 そう言うと、うつむいていたははじかれたように顔をあげた。 「この間の写真の、モデル代で。報酬ってことになるから、受け取りやすいやろ?」 「・・・でも、たった一枚の写真でそんなに」 「そう思うんなら、迷惑代も含めて考えて。・・・だけど、それじゃ足りひんと思う。薬だって一回投与したら完了ってわけでもないし、投与続けていったらすぐ金なんてなくなるから」 それくらいは説明しなくてもわかっていたのだろう。はまたうつむいた。すぐにうつむくのは癖だろうか。下には何もないのに。そりゃ空を見上げたって、何もないけど。 「お客様、閉店のお時間となりますので、恐れ入りますがお会計をお願いいたします」 ウェイトレスがテーブルにやってきて、すまなそうに頭を下げる。腕時計を確認すると9時半をまわったところだった。 「わかりました」 差し出された伝票を確認して財布を開くと、ウェイトレスが「あの」と声をかけた。 「大倉忠義さんですよね?フォトグラファーの」 「あー・・・はい」 俺は芸能人ではない。強いて言うなら文化人。といっても誌面に顔を出しているわけだし、声をかけられて文句を言えた筋ではない。これまでだってたまにあったし、こんな人間、だいたい無害だ。余談だが、「雑誌のインタビューじゃとっつきにくいイメージがあるから、直接ファンと話すときくらい猫かぶれや」というおせっかいな指示はあの幼馴染からのもの。 現にこのウェイトレスだって、本人と知って大騒ぎするわけでもなく、少し愛想よく微笑んだら顔を輝かせた。 「大倉さんの写真、大好きです。昨日発売のGraphictionも見ました」 「それはどうも、ありがとうございます」 Graphiction。そういえばあの雑誌はそんな名前だったか。自分で買うこともなく編集部から送られてくるし、取材を受けるのはあの編集部からのみだから他と区別する必要もなく、つまり名前を認識していなくてもやっていけるのだった。こんなことをあの幼馴染が聞いたら怒るだろうが、現にあいつは俺が今まで雑誌の名前を認識していなかったことに気付いてもいない。つまりその程度。結局名前なんて他と区別するための記号にすぎず、名前という概念そのものには何の価値もないのだから。 礼を言いながら横目でを確認すると、案の定というか予想通りというか、うつむいたままだった。 しかし注文なんかで接したウェイトレスにはわかったのだろう、彼女はをちらちらと気にしながら、「そちらのお客様、もしかして表紙のモデルさんじゃありませんか?」と俺に尋ねた。 ・・・いや、何の価値もないこともないか。 利用価値くらいはある、かもしれない。 「・・・そうなんです。こうやって声かけられんの慣れてへんからどうしたらええかわからんみたいなんですけどね」 自分の話題になってさらに身を固くしたのフォローをとりあえずしておくと、ウェイトレスは「そうなんですか」と頷いた。印象は悪くないようだ。どちらにしても、関係ないけど。印象が良かろうが悪かろうが、どちらにしろ結果は変わらない。ウェイトレスがに気付いた。それだけで満点だ。気付かれなければ、気にも留められなければ、何も成立しないから。 「・・・内緒事、得意ですか?」 今度は俺からウェイトレスに尋ねると、少し間をおいてから彼女は頷いた。 嘘ばっかり。聞いておいてなんだが、とてもそうは見えない。 ・・・だから、言うんだけど。 「今度ね、彼女の写真集撮るんですよ」 が目を見張る。当然だ、何も聞いていないのだから。もっとも、この後提案という形でこの話をする予定ではあったのだ。だけどウェイトレスの登場で、少し順序が入れ替わった。閉店時間が思ったより早かったのも予定外だったし、ウェイトレスが俺たちに声をかけてくることも予定外だった。しかしそれだけだ。結果は同じ。先に提案をしていたとしても、もちろんは拒否するだろうが、最終的には受け容れたはずだ。受け容れさせる、つもりだったし。世間にそれを公表するつもりは今日の段階ではなかったけど、この程度のズレは許容範囲内だろう。むしろ、事態が好転したとも言える。 口に出したらもう、後には引けない。引かせるわけにも、いかなくなるから。 「・・・ちょっと待ってください、私はそんな」 「これからは人物写真も撮られるんですか?」 とウェイトレスの声が重なった。どちらの言葉に応じるかなんて、考えるまでもない。 「この子だけです、この子は特別で。他の人物は撮りませんよ、これからも」 「・・・もしかして、恋人なんですか?」 そんなわけない。 「ただのカメラマンと、ただの被写体」 それは、事実。ここで「恋人」と答えたらウェイトレスもあっさり納得するだろうが、「恋人」よりも「恋人ではないのに特別な存在」のほうが、好奇心を煽れるだろう。少しくらいの邪推は甘んじて受ける。それだって、興味から来るものだから。興味すら持たれないよりはずっといい。 ウェイトレスは腑に落ちない顔をしながらも、曖昧にうなずいた。 「じゃ、会計はこれで」 話を切り上げる意味で金をウェイトレスに渡すと、がちらりと俺を見た。たかだか何百円かの紅茶でも、俺におごってもらうのには抵抗があるのだろう。だけど彼女は何も言わなかった。男を立てるというわけではないけど、それくらいはわきまえているということか。 外はやっぱり暗くて、やっぱり寒かった。「ご馳走様でした」と前置きのようにそう言って、「・・・写真集って何の話ですか」と尋ねた。その表情は、うつむいているせいで見えない。 「俺、怖い?」 の質問を無視して聞いた。 「・・・え?」 「あんま目ぇ見てくれへんから。怖いんかなって」 「あ・・・そういうわけじゃないんです。ごめんなさい、下向く癖みたいなの、ついてて」 やはり癖だったらしい。いつも横になっている母親と話すからか、と言ったらあまりに悪趣味な皮肉になるから言わない。 「それだけ?」 「それだけです。それよりも」 「わかっとるよ。ごめんな、いきなりあんなこと言って」 言いながら、スペアのヘルメットを渡す。 「・・・ちゃんと説明するから、場所変えへん?ここじゃ寒いし」 そう話す息も白く染まる。はヘルメットを受け取って、だけど戸惑うようにかすかに眉をひそめて「・・・どこに?」と問う。 「近いって言うたやん、うち」 と答えると、さすがに警戒を強めたのかは少し眼光を鋭くして俺を見上げた。 「別に変な気はないで。さっきウェイトレスにも言うたやん、ただのカメラマンとただの被写体って」 そう、あの言葉にはを安心させる意味合いもあったことはあったのだ。それに事実、家に連れ込んだ彼女をどうこうしようなんて気は毛頭ない。根本としてにとっての俺の第一印象はいいものではないのだ。それをこれからどうにか丸め込まなければならないのに、ここで下手なことはできない。 「この辺りで俺が知っとる店は、顔見知りばっかやから内緒話には向いてへん。なんならちゃんと家まで送るから安心して」 「・・・・・・」 「・・・もちろん安全運転するし」 そう付け加えるとようやくは、それでも渋々といった感じにだったけど、「・・・わかりました」と答えた。 |