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目覚めはひどく悪かった。いつもなら目覚まし時計の音にすぐに意識が覚醒するのに、今朝は体が重くて仕方がない。 それでも体を無理矢理起こして、浴室に向かう。昨夜は疲れのあまり風呂にも入らず眠ってしまった。接客業だし、そのまま仕事に行くわけにもいかない。なにより重たい気分をシャワーで少しでも洗い流したかった。洗い流せるものではないことくらい、わかってはいるけど。それにたとえ洗い落としたとしても、またすぐに考えなくてはならないのだ。どうしてこんなにも、重い。潰れてしまいそうなくらい、重すぎる。私の脳のキャパシティをあっさりと越えるできごとばかりがたった2,3日の間に立て続けに起きているのだ。混乱して重たく感じたって、当たり前だろう。 ・・・だけど、大倉の話を聞かなければよかったとは、思えない。 受け容れなければ、こんな思いはしなくて済んだ。現状を変えようとしなければ、こんなに大きな話にはならなかったのだ。わかっていたことを全て受け止めて予定調和に身を委ねて、これまでどおりに普通に不変な毎日を送ることができた、はずだ。 それでも、後悔なんてできるわけがない。 後悔なんてしたら、 後悔なんてしていることをもしも認めてしまったら、 『だって、』 まるでお母さんを見殺しにするみたいじゃないか。 『助けたいんやろ?お母さんのこと』 「・・・・・・助けたいよ・・・」 呟いた独り言は、シャワーの音に掻き消えた。 たちまち湯気が立ち上る一人の空間。浴室を出たって私一人。お母さんがこの家に帰ってくることは、ないかもしれない。 それでも、あと少し、生きていてほしい。 「・・・話はわかったけど、それはできない」 医者が言った。 残光でほの明るい夜空が見えることのない四角い部屋の中、大倉と私は医者の向かい側に座っている。 医者への説明は、嘘まみれだ。 まず大倉はただの知人という設定。医者は見聞が広く写真家としての彼のことを知っていたけれど、深くは追求してこなかった。 そして、出資するのが大倉だということは伏せる。親戚でもなんでもないただの知人がそこまでするとなるとさすがに不自然に写るだろう。なので母が積み立てていた貯金が突然見つかり、そこから金を出すという作り話をした。もちろん実際にはそんなものはない。これまで良くしてくれた医者にそんな嘘をつくことには、自分でも驚くほど罪悪感を感じなかった。それよりも優先するべきものがあるのだ。そのためになら、そんな嘘くらいつける。それしかなければ、それにすがるだけのこと。誰だって道徳や常識なんかより大事な人の命を取るに決まっている。 だから、後悔しない。 私は後悔なんてしていないし、これから先も絶対にしないんだと、そう決めた。 見殺しになんてしない。精一杯、それが間違っていたとしても何にそむいているとしても、あがき続ける。 逃げ道への扉を閉めたのは大倉かもしれない。 だけど、そこに鍵をかけるのは、私だ。 しかし医者はその作り話を聞いた上で、はっきりと「それはできない」と言った。 「どうしてですか」 「未承認薬は海外ではそれなりの効果を実証している。だけど日本での臨床例はほとんどない」 「国が違っても同じ人間なんだから、日本人にだって効果はあるはずじゃないですか」 「効果のある可能性と同じだけ、効果のない可能性もある」 「でも、それなら試す価値だって」 「・・・お母さんを実験台にしたいのか?」 「・・・・・・」 違う。 そんなつもりじゃない。 希望に縋りたいだけだ。 唯一見えた光に手を伸ばそうとしているだけなのに。 手を伸ばして、掴めなかったというのならまだいい。 だけど手を伸ばすことすら許してはもらえないのなら、もう、身動きなんて取れないじゃないか。 言葉が出ない。 医者の言っていることは、正しいのかもしれない。薬を投与するならデータを取るだろう。そして薬を投与した結果がどんなものであれ、数少ない未承認薬の臨床例としてどこかに書き留められるだろう。治療のための行為が、ただの文字になって終わるだけなのかもしれない。そして彼にだって医者としてのプライドがあるのだろう。もしもその行為を実験と呼ぶのなら、自分の患者を実験台にしたくはないと考えているのだろう、おそらくは。 立派な、医者なのだ。親切で、おおらかで、患者を大事にして。それは、わかっている。 わかっているからこそ、何も言えない。 だけど、 「・・・娘が母親を生かしたいと思うのは、いけないことですか?」 そう言葉を発したのは大倉だった。椅子に深く腰掛けた姿勢を崩さずに、私さえも無視して医者を見つめている。 「そんなん当たり前のことやと思います、俺は。少しでも長く一緒おりたいから、効果があるかもわからん薬にだって頼りたい。それは『実験』ですか?・・・もしそうなら先生は、実験に失敗すんのが嫌なだけなんやないですか?」 「・・・大倉さん、」 正直に言えば、少し嬉しかった。私が言葉にできなかった気持ちを代弁するかのように大倉がそう言ってくれたことが。 だけど、後半部分は言いすぎだ。医者は明らかに気分を損ねたように眉間に皴を寄せる。 「・・・勘違いしていませんか?未承認薬を使ったところで、治るわけではない。ガンの進行を遅らせることが目的の投与ですよ」 「それは俺もさんも理解してます。俺たちはその薬でガンの進行をさまたげて、少しでもさんのお母さんに長く生きてもらいたいと思っているだけです」 「副作用によって骨が痛んだり体中がむくんだりする。それでも効果があるかはわからない。効果があったとしても、それによってどれだけ寿命が延びるのかもわからない。その痛みや苦しみをその身で味わうのはさんのお母さんです」 「つまり先生は、さんのお母さんが未承認薬の使用を望まないと思ってはるってことですか」 「それはもちろん本人に聞かないことにはわかりません。だけど治療はギャンブルではない」 「・・・じゃあ、おとなしく死ぬのを待てと?」 医者と大倉のやり取りに口を挟めなかった私は、大倉のその一言に息を飲んだ。 「先生のおっしゃることは俺にも理解できます。治療はギャンブルやない。その通りやし、人道的な台詞ですよね。せやけど先生はそうやって先に言い訳しとるだけやないですか。『ええ医者やった』『できるかぎりのことはしてくれた』って、遺族に言われたいだけですよ」 その言葉に続くのは沈黙。誰も何も言わない。大倉はさらに言葉を続ける気はないようだし、医者は眉間に皺を寄せたまま大きく息をつく。もちろん私だって、なんと言ったらいいのかわからない。 そして長い沈黙を打ち破ったのは、やはり大倉だった。 「・・・すみません、言葉が過ぎました。ちょっと感情的になってしまったみたいで」 「・・・いや、」 「今日はこれで失礼します。明日また来ますんで、そのときにもう一度話し合いましょう。お忙しい中ありがとうございました」 言葉を捜す医者を尻目にそうさっさとその場をまとめて、「行こ」と立ち上がる。その態度に、結局医者はもう何も言わないようだったので私も席を立った。 廊下に出て歩きながら、「ごめんな」と大倉は私に謝った。 「やっぱ言い過ぎたわ。さんの体面もあんのに」 「・・・いえ、でも、私ではああは考えられないし、言えなかったから」 そう応えると、「それっぽいな」と大倉は苦笑いした。 「さんはたぶん真面目で素直やから、言われたこと信用しようとするし説明を聞いたら納得しようとする。もし納得できないことがあっても事が荒立つのを避けたくて、引き下がる。それで納得できなかった部分については後から自分なりに解釈してどうにか自分を納得させる、」 大倉は一旦言葉を切って、 「気がする」 と付け加えるように言った。 「・・・当たってるような、気がする」 私も大倉の言尻を真似て呟いた。大倉はそれに少し笑った。 「でもそういうのって一番騙されやすいタイプやから、気をつけてな」 釘を刺すようにそう言われて、思わず笑ってしまった。今の言い方は、お母さんが私に注意するときのそれにそっくりだったから。 つい今しがたまで医者と深刻な話をしていたことを一瞬忘れそうになるような、ほんのわずか、ゆったりとした時間だった。 気がする。 |