そのアパートの裏にある駐車場には猫が住んでいました。
白い身体に黒と茶色のペンキを落としたようなブチ模様をつけて、猫はそれらの模様が世界中のどんな猫のものよりも立派なものだと知っていました。


猫には毎日アパートの住人らが声をかけてくれました。誰も部屋の中には入れてくれませんでしたが、猫はそんなことにいちいち腹を立てたりはしません。アパートの外周をぐるりと回ったところにある小さな玄関ホールに貼られている紙に書かれた「ペット禁止」という言葉の意味を知っていたし、猫は硬いアスファルトの上に横になるほうが性に合っていると思っています。住人達はみんな駐車場まで足を運んでくれるので、玄関側に回る必要もありません。それに彼らは猫のための食べ物もよく持ってきてくれました。だから猫は何不自由なく暮らしていたし、その証拠に少し太り気味でした。



今日は1階の一番奥の部屋に住む男の人がご飯を持ってきてくれました。この男の人は猫の黒いブチの部分と同じ髪の色をしていて、いつも月曜日に茹でたササミを持ってきます。



1年前、去年の秋頃に引っ越してきたこの男の人と初めて出会ったとき、猫は彼に睨まれたような気がして、フーッと威嚇をしました。自分の方がこのアパートに長くいるのだから、彼が自分を敬うのは当たり前だと思ったのです。特に野良猫の世界では上下関係をそれはそれは重んじていましたから。

「亮、睨まないで。かわいい猫なのに」

そんな男の人と猫の間にすっと立ったのが、猫の茶色いブチの部分と同じ髪の色をした綺麗な女の人でした。彼女は彼の同居人らしく、だけど猫が見たところ、二人は結婚しているわけではないようでした。
その女の人からは猫の好きな金木犀の香りがして、猫は逆立てていた毛を収めました。だけどかわいい猫、という言葉に少しだけ複雑な気持ちになりました。猫はとっくに大人に成っている雄猫だったのです。
「睨んでへん」
男の人はそう言って女の人の脇を通り抜けて猫を抱き上げました。猫は男の人がそんな行動に出るとは思わなくて、逃げ出すチャンスを逃してしまいました。男の人は猫の腹の部分を眺めて、「・・・・・・かわいい言うてもこれオスやで、」と言いました。
無遠慮に腹を見た挙句『これ』と呼ばれたことに猫は少しカチンときましたが、男の人が猫の気持ちを代弁してくれたので、引っ掻くのは勘弁してやりました。




「おいデブ猫。メシここに置いとくぞ」

月曜日の朝、その男の人はいつもそう言ってササミを置いていきます。デブ猫と呼ばれることは心外だったし、そのササミを茹でているのはあの女の人だということを知っていたので、猫は男の人がいなくなってからそのササミに口をつけます。彼の前ですぐにササミに飛びつくのはなんだか癪だったのです。あの綺麗な女の人が持ってきてくれればいいのに、と思っていましたが、いつの間にか猫はそのまま仕事に行くらしい男の人の背中を見送ることに慣れていました。
女の人はたまに猫の前に姿を現しました。小さなお皿にミルクを注いでそっと猫の前に置いてはくれますが、猫には一切触れません。猫がお礼を言う為に足元に擦り寄ろうとしても、すっと体を引いてしまうのでした。
それがどうしてだかわからなかったけれど、猫はその女の人のことが好きでした。彼女はササミの茹で加減が素晴らしく上手だったし、たまにその上にかつお節もふりかけておいてくれましたから。




その日も女の人は猫にミルクをくれました。今日こそお礼を言おう、と猫はいつもより早いタイミングで女の人の足に体を擦り寄らせました。女の人が小さく息を飲む音が聞こえて、猫がその顔を見上げようとすると同時に「!!」という怒鳴り声が聞こえました。猫が驚いてその声の方向を見ると、あの男の人が普段よりもっと怖い顔をして立っていました。

「何やっとんねんお前!・・・・・・もうええからはよ離れろ。絶対触んなや」
そう言いながら男の人はつかつかと歩いてきて、真っ青になっている女の人の手を掴んで部屋に入ってしまいました。猫と小さなお皿には見向きもしませんでした。

猫には何故あんなに男の人が怒っているのかはわかりません。だけど女の人が怒鳴られたのは自分のせいであるような気がしたので、久しぶりに玄関側に回ってそっとアパートの中に入りました。もともと猫は足音を立てないで歩く動物です。誰にも気付かれずに一階の一番奥の部屋の前まで行くことができました。

廊下に面している小さな窓は少し開いていて、壁にぴったり寄り添って耳をすませるとぼんやりと中の声が聞こえてきます。



「猫に触るなって言うたやろ」
「・・・ごめん、うっかり、」
「うっかりって何やねん、お前は自分の体を理解しろや。ちょっとした雑菌やなんかが命取りになるって医者が言うてたやんか」
「・・・・・・うん」
「あの猫に構いたいのはわかるけど、野良猫なんて菌がいっぱいついとるもんやって知っとるやろ?毎日手や服も消毒せなあかんのに、」
「わかってる、ごめん。・・・ごめんね」
「・・・俺かてわかっとるよ、が悪いわけやない。  でもまた入院することなったらとか考えると、どうしても神経質になってまうねん・・・・・・ごめんな、俺、きつい言い方しかできへんわけやないのに」




猫はショックでした。雑菌、命取り、医者。消毒、入院。猫はもう10年以上生きていましたから、これらの単語の意味も知っていました。そして、その会話から女の人が病気なのだということ、たまにしか姿を見せなかった理由と、猫に触れようとしなかった理由もわかりました。
その晩、猫は女の人が注いでくれたミルクを少しずつなめながら、一晩中項垂れていました。








「おいデブ猫。メシここに置いとくぞ」
次の月曜日、男の人はいつものようにそう言って猫の前にササミを置いて仕事に出かけました。
だけど女の人はそれから猫の前に姿を現すことはなく、2日に一度くらいの頻度でミルクを注いだお皿を置いてくれるのも男の人になりました。猫はもう、男の人がいなくなるのを待ったりせずにそれらに口をつけるようになりました。







その次の月曜日、男の人は来ませんでした。
その次の月曜日も、男の人は来ませんでした。







ご飯もミルクもアパートの他の住人達が与えてくれたので空腹に困ることはありませんでしたが、猫はあの女の人の素晴らしい茹で加減のササミが食べたくて、そしてあの男の人の不機嫌そうな声が聞きたくて仕方がありませんでした。












その夜、猫は男の人が来た事に気付くのに時間がかかりました。
猫の黒いブチの部分と同じ色の髪をした男の人は、夜と同じ色の服を着ていたからです。
「デブ猫、」
男の人は今日はササミを持っていません。ミルクの注がれたお皿も持っていません。何も持っていません。それでも猫はその足元へ駆け寄りました。
ふわりと風が吹いた拍子に、男の人から白檀のような匂いがします。


それは、お線香の匂いでした。


だけどその匂いを嗅がなくても、猫にはもう何が起きたのかがわかっていました。
だって男の人は、何も持たないままその身ひとつで捨てられた10年前の自分と同じ表情をしていたのです。







「もう ササミないねん、どうしよか」



―――にゃあ。
猫は「構わない」と答えました。






「ミルクも、腐ってもうた」



―――にゃあ。
やっぱり猫は「構わない」と答えました。













「  も、   もう おらん 」













―――にゃあ。



これにだけは「構わない」と答えるわけにはいかず、猫は「わかってる」と答えました。







そして、足元に擦り寄って、喉をゴロゴロと鳴らしました。

ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。

何度もそう繰り返しました。
男の人はしゃがみこんで、猫の頭を優しく撫でました。
「お前のせいやない。免疫力が落ちとったところに、別の菌が入ってもうたんや」
男の人は泣いていました。ぽたりぽたりと猫の頭に男の人の涙がこぼれました。
猫は泣きませんでした。猫の目は悲しいときに涙を流すようには作られていないので、鳴くことしかできません。











「俺が、」



ぽたり。にゃあ。











「  守ってやらなあかんかったのに」



ぽたり。にゃあ。











男の人はずっと泣いていました。涙を零され続けた猫の頭はぐっしょりと濡れて、自慢の毛並みはくすんでしまいました。それでも猫は動きませんでした。



そのうち猫の頭から男の人の涙が垂れて、猫の目に入りました。
猫がまばたきをすると、その涙が流れ落ちました。
猫は、ようやく泣けたのです。












そのアパートの裏にある駐車場には猫が住んでいました。
白い身体に黒と茶色のペンキを落としたようなブチ模様をつけて、猫はそれらの模様がとても気に入っていました。



猫には毎日アパートの住人らが声をかけてくれました。誰も部屋の中には入れてくれませんでしたが、猫はそんなことにいちいち腹を立てたりはしません。アパートの外周をぐるりと回ったところにある小さな玄関ホールに貼られている紙に書かれた「ペット禁止」という言葉の意味を知っていたし、猫は硬いアスファルトの上に横になるほうが性に合っていると思っています。住人達はみんな駐車場まで足を運んでくれるので、玄関側に回る必要もありません。それに彼らは猫のための食べ物もよく持ってきてくれました。だから猫は何不自由なく暮らしていたし、その証拠に少し太り気味でした。



あの夜から3回月曜日が巡りました。猫の黒いブチの部分と同じ色の髪をした男の人は、ササミとミルクを注いだ小皿を持ってきてくれました。
だけどササミは生っぽかったり茹で過ぎて固くなっていたりしました。もちろんかつお節なんてかかっていません。






そして、次の月曜日に、男の人は1階の一番奥の部屋から出て行きました。

















それから3年後、猫は死にました。事故ではありません。寿命です。太り気味だった猫の身体は半分くらいの大きさになっていました。老いとはそういうものです。

そして、そのくすんだ白い身体には黒いブチだけがくっきりと残っており、年とともに何故か薄くなっていった茶色いブチは、完全になくなっていました。








だけど猫は、自分のこの模様は世界中のどんな猫のものよりも立派なものであると知っていました。













そしてそれを心から誇りに思ったまま、猫は死にました。















(03/08 猫は知らないけれどその身体を抱き上げたのは、 )