・・・・・・・カホリ? 村上のこめかみのあたりがドクドクと音を立てる。動揺、している。 カホリ。 何故今、そんな名前を。 だって、その名前はもう二度と口にしないと、暗黙の了解が成り立っていたはずなのに。 村上は大倉が見つめる女に視線を移す。俯いてまだ息を切らせている彼女は、髪が邪魔で顔が見えない。 「・・・」 「・・・嘘やろ、そんな・・・」 丸山が呟くように言って、女の正面にかがみこむ。そのまま「なぁ、・・・こっち見て」と女の頬に手を添える。驚いたように女が一瞬身を固めたのが村上にもわかった。いきなりの丸山の行為にその反応を返すのは当然だが、もう少し休ませてから・・・などと、悠長なことを言ってはいられない。 女が顔を上げた。 ぐらり、めまいがする。 黒目が大きめな瞳。桜色のくちびる。白い頬。その整った顔は、1年前に姿を消したときとなにも変わらない。 変わらない、けれど。・・・何か違和感を感じる。 何かが違う。全く同じ顔なのに、何か。 「カホリ・・・帰ってきたんや・・・」 「・・・どこ行っとってん!お前がいなくなって、スバルがどんな思いでお前のこと探したか、」 大倉と丸山の言葉に、女は眉をひそめた。頬に添えられた丸山の手をそっと外し、困惑したような表情を浮かべながら、しかしはっきりと「人違いよ」と言う。 「あたしは、カホリっていう名前じゃない」 その声は、確かに記憶の中のものよりも少し低いような気もする。 これが違和感の正体か。別人だというのなら違和感があって当然だと言える。だけど、こんなに似ているのに、別人なんていうことがありえるのか? 村上は混乱しそうになる頭をどうにか落ち着かせようとする。だが、まるで夢を見ているようなぼんやりとした感覚は消えない。ありえないものを見ているような、あるはずのないものに触れてしまったような、不条理を見せ付けられているような。 「・・・じゃあ、違うって言うんなら、お前の名前は?」 「・・・」 別人に成りすましている可能性もないとは言い切れないが、丸山の問いに答えるその顔に浮かぶのは困惑でしかない。少なくとも、村上には、というらしい女の表情に他の要素を見つけることはできなかった。 ではやはり、人違いなのか。 そう結論付けようとした矢先、が口を開いた。 「・・・ねぇ、あなたさっき、スバルって言った?」 丸山に向き直って、真剣な眼差しで問う。 「・・・なんで、・・・なんでそんなん、聞くん」 緊張に張り詰めた声でそう問い返したのは、大倉だった。 は大倉をちらりと見上げて、それからまた丸山に向き直り、首をかすかに傾げる。 「渋谷スバルを、探してるの」 『おい、お前カホリ見んかったか?なんや知らん、おらんのやけど』 あの日、 そんな風に彼女を探していたのは、渋谷だった。 「・・・なんでお前がスバルを探すん」 彼女は、カホリじゃない。 似ているといっても、別人なのに。 『スバル』 その名前をから聞くことで、何故こんなにも不安になるのだろう。不安と、焦燥と、・・・怒りが、ザワザワと耳の奥で騒ぐ。 お前はカホリじゃないんだろう? カホリじゃないくせに、カホリと同じ顔で、渋谷スバルを探している、だなんて。 なんて皮肉、なんて不条理。報われなかった渋谷の想い。突然姿を消した彼女。突然現れた女。何が起きたのか誰も知らない。 ・・・誰も、どこにも、届いていない。どこにも辿り着いていないまま、あの日から。もしかしたらその前から、ずっと。 「・・・大事な用があるの。だから・・・知ってるなら、教えて。スバルがどこにいるのか」 丸山と大倉は村上の顔を見る。年功序列としてもボクシングの腕をもってしても、3人の中で一番発言に力があるのは村上だ。だから二人は村上の判断を待つし、村上の判断に従うつもりでいた。 教えるなら教える。教えないなら教えない。たとえ、・・・それ以外の選択肢を村上が見つけ出しても、それが突拍子もない提案だったとしても・・・それに、従う。 スバルを一番近くで一番長い間見守り、支えてきたのは村上だから。それを知っているから。 だから、二人は待った。 「どうしても会わなきゃいけないの。危害を加えるつもりもないし、加えられるとも思ってない。用がすんだらすぐにこの町からも出て行く」 そんな二人の様子から、この場の様々な事に関する決定権を握るのが村上であると理解したは、村上に向き直って真っ直ぐに、「だから、お願い」真っ直ぐな声で、言った。 村上は自分を見つめる真っ直ぐな瞳から目をそらせないまま、普段より格段に回転数の少ない脳でめまぐるしく考える。 渋谷は、今日は家にいるはずだ。そもそもあまり出歩く習性のない彼が、しかもこんな時間にいる場所を挙げ連ねても、片手で足りる。家、ボクシングジム、クラブ、病院。その程度。それらを消去法で一つずつ省けば自ずと答えは割り出される。 村上は一度目を伏せてから、もう一度を見つめた。 のその表情にはとても人を騙そうとしているような狡猾さはなかった。どうやら本当に渋谷に危害を加える気はないようだし、もしその気があったとしても、自身が言ったように、渋谷が女に負けることはありえないのだから。 それらを踏まえれば、渋谷の居場所をに教えることは無理な話ではない。 だけど。 彼女を渋谷に出会わせても、いいのだろうか。 その思いだけが村上の口を閉ざす。 彼女を見たら、渋谷はどんな行動に出るのだろうか。それが、わからない。もう5年以上も傍にいるのに、渋谷の反応が、まったく予想できない。こんなこと、これまでなかったのに。 「・・・そんなに、大事な用なんか」 搾り出したような村上の言葉に、は迷わず頷く。村上は、長く長く、息を吐いた。 「ほんでも・・・今日は会えへんぞ」 村上がようやくそう言うと、は「じゃあ明日でもいい。お願い」と頭を下げた。床に座り込んだまま、手をついて頭を下げる。 「土下座までするんや・・・なりふり、構わんねやな」と大倉が呟いた言葉を皮肉とも受け取らず、「会わなきゃいけないから」と答える。 その姿を見て、村上は・・・諦めた。 予想することを。想像することを。仮定することを・・・諦めた。結局わからないのだ。と渋谷が出会うことによって何かが起こるのかも、起こらないのかも、渋谷がどんな反応をするのかも、何もわからない。だったら悩んでいても、仕方がない。 「・・・明日、夕方の4時頃にまたここに来い。スバルがどこおるかちゃんと教えるし、会わせたるから」 「・・・ありがとう」 は頭を上げて小さく微笑んで、礼を言った。 「・・・」 その笑顔すら・・・似ていて。 本当に、似過ぎていて。 村上は改めて思考を訂正する。 ・・・何も起きないなんてことは、ないだろう。そんなことは、ありえないのだと。 ただ、何が起こるのかだけが、どうしたってわからなくて、 なんだか背筋がぞわりとする。 それがなんだか恐怖に似た感覚だと、認めたくはなかったから、笑って見せるけど。 NEXT |