ヒット。



背後の男が声にならない叫び声を上げて崩れ落ちるようにうずくまった。
黒いパーカーを着たその男をちらりと振り返り、「大丈夫ですか」と声をかけたりはもちろんせずに、は男から5歩距離を取る。すると、またも背後から。
「赤西!?」
と声が聞こえた。
「げ」
仲間か。
前にはうずくまった男。後ろには仲間らしき男。声の感覚からして5m以上10m未満。
ならば、横に逃げるしかない。は90度方向転換をして走る。
しかし。
「リョウ!!」
黒いパーカーの男がうずくまったまま搾り出すように叫び、リョウと呼ばれた男はを追って走り出した。
さっきまでの追いかけっこのせいでが大分スタミナ消耗していたことを差し引いても、男の瞬発力は目を見張るほどの物であり、しかし実際が目を見張る暇もなく・・・左腕を捕まれた。
殴られるか。
思わず右手をびくっと顔の前にかざすが、予想していた衝撃はやってこない。
「・・・・・・?」
おそるおそる、反射的につむっていた目をあけて男の顔を見た。泣きぼくろのある、整った顔。


「・・・・・・お前、何してんねん・・・」


その顔には仲間を傷つけられた怒りではなく、純粋な困惑が浮かび上がっていた。
「っあー・・・マジありえねぇ・・・」
うなるようにそう言いながら、黒いパーカーの男が立ち上がる。
「・・・赤西、大丈夫なんか」
「死ぬかと思った・・・」
男はたちのほうにゆっくりと歩いてきて、「ま、驚かしたのこっちだし?」と言って、自分に相当なダメージを与えたはずのに笑いかけた。
にっこりと綺麗に、嬉しそうに、笑いかけた。



あぁ、なんとなくわかる。想像がつく。
この男が何を言うのか、何故自分にそんなに親しみを込めて笑いかけるのか。




「許しといてやんよ、  カホリ  」




・・・やっぱり。は大きく息をつく。
そんな気はしていた、泣きぼくろの男が自分を見る表情を見たときから。
そもそもこの町において、強盗や暴漢でなくを追うとすれば、この勘違いをしている人間でしかないのだということはここ数時間でしっかりとわかっている。
そりゃ強盗や暴漢より大分マシだけど。
「あの、・・・違うんですけど」
「え?」
「あたしはカホリさんじゃ、ない」
二人の男は、同時に眉間にしわを寄せた。


















「スバル、入んで」
ノックと同時にドアが開かれる。それではノックの意味はないのだが、それを気にも留めずに渋谷スバルは部屋に入ってきた安田ショウタを振り返った。
「・・・遅かったな」
「悪い。ここ来る途中で田中に会ってん。そんでちょっとな」
その言葉に渋谷はあらためて安田の顔を見る。長い前髪の向こうにあるその顔には、傷もあざもない。
「やり合わんかったんか」
「まぁな」
「まさか逃げてきたんとちゃうやろな?」
鋭い視線に背筋がぞくりと震える。
それを心の中に押しとどめて、安田は肩をすくめて笑って見せた。
「ちゃうわ。逃げたんは田中。・・・まぁ正確に言うなら逃げたんやないかもしれんけど・・・誰か知らん、女のこと追っかけてったみたいやで」
「女?」
「顔は見んかったけど、女やったで。もの凄い勢いでな」
「・・・・・・ふん」
「そんなことよりユウタは?」
安田はそう話を切り換えた。渋谷ももう田中については深く言及する気もなかったようで、「あぁ、」と窓を向いた。



窓からは、この町で一番大きな建物が見える。
白いその建物。昼間ならば屋上に建てられた看板に「心臓外科」と書かれているのが見えただろう。



「今日は素直に寝てくれたわ。明日、ちょっとでかい検査あるしな」
「そっか」
「明後日は練習所に来るって息巻いとった。また相手、したってくれ」
そう言って、さっきの射殺すような目からは信じられないような穏やかな表情を浮かべる。安田もつられるように少し微笑んだ。






渋谷ユウタ。
彼は渋谷スバルの弟であり、唯一の肉親である。
ユウタは生まれつき心臓が弱かった。人生のうち4分の3は病院で、心臓移植の順番待ちをしながら過ごしている。
それなのに、そんな辛い苦しみを微塵も感じさせない明るい子供で、よく病院を抜け出しては渋谷のいるボクシングの練習所を覗き、最近では見よう見まねでスパーリングまで始めた。






「・・・ユウタはすごい子やな」
安田の言葉に、渋谷は誇らしげに少し笑う。
「当たり前や。俺の弟やぞ」
渋谷は、そんなユウタを何よりも大事にしていた。何があっても絶対に守りぬくと近い、これ以上ないほどの愛情を与え続けている。



「・・・なぁ、そういや映画の話、どうしたん?」



ふと思い出したように安田は尋ねた。
外の町からやってきた映画プロデューサーが、渋谷にその半生を映画として描きたいのだと話を持ちかけたのは、3日ほど前。
そのプロデューサーの名前は横山ユウ。若手ながらにして昨年度の大きな映画祭で銀賞をとった映画のプロデュースをしていたという、実績のある実力派。
「・・・ま、あの男は正直あんまり好きやない。何考えとんのかわからん」
渋谷と話している間中、その顔から笑みが絶やされる事はなく、饒舌に自分の企画について語っていた、軽薄そうな男。
しかし、彼は一筋縄ではいかないと、渋谷の勘が告げる。
「でもユウタがな・・・どうしても俺の映画観たいって、聞かんねん」
この町の伝説となっているこのボクサーも、そのキラキラと輝いた瞳には敵わない。
「じゃあ、引き受けるんや」
「・・・・・・まぁ、やるんなら、早い方がええからな。・・・あんまり、時間もない」


その言葉に、安田の表情は曇る。ちらりと窓の外の建物を見遣る。「心臓外科」の文字がはっきりと見えたような気がした。
たしかに、猶予はない・・・のかもしれない。


「・・・ユウタは、大丈夫やて。バンクの順番かてきっとすぐ回ってくる」
「・・・・・・」
これが下手な慰めだとしても、ただの願望だとしても。安田にはそう言う事しか出来なかった。





しかし、渋谷は険しい表情のまま、「そうやない」と、呟いた。



その声は安田に届く前に、空気に紛れて消えてしまったけれど。
この言葉が安田に届いていたら、そして安田がそれを追求していれば。
何かが変わったかもしれない。





だが、石は、転がり始めた。