「スバル」


村上はスパーリングをしている渋谷に声を掛けた。
まだ揺れているサンドバッグに手を添えて、渋谷は振り返る。少し息が上がっていた。
出会ったときから変わらない彼の姿。少し痩せた・・・というよりむしろ少し、小さくなったか。もちろん身長の話ではない。
1年前と比べて筋肉が落ちたのかもしれない。だってあの頃とは違うのだ。
チャンピオンを目指していたあの頃とは、違うのだ。
「・・・村上?」
喋りださない村上に、渋谷は不審そうに声を掛ける。
「あ、・・・悪い」
「あんま寝てへんねやないか?」
それはお前だろうという言葉は飲み込む。
渋谷の顔にくっきりと浮かぶ隈を見ると、それを指摘する事もはばかられるような気がするのだ。時間はたっぷりあるはずなのに、眠れていない。
チャンピオンを目指していた頃は、厳しい練習の疲れのせいで放っておけばいつまでも眠っているような男だったのに。


チャンピオンを目指していた頃は。


カホリが、いた頃は。


「・・・お前に、会わせたい奴がおんねん」
村上はそう切り出した。
「・・・・・・会わせたい奴?」
渋谷は眉をひそめる。1年前から、渋谷はあまりひとと関わろうとはしなくなっていたことは村上も十分知っている。だからこの反応は予想していた。
昨夜、自分が助けた女。土下座してでも渋谷に会いたがった女。


あれから、考えて考えて考えて、考えた。丸山も大倉も何も言わない。だから一人で、それこそ眠らずに考えていた。どうして自分は、彼女と渋谷を会わせようと思ったのか。
彼女があまりに必死だったから?それもある。
早くこの待ちを出て行ってほしいから?それもある。
だけど、
だけど本音は、それだけじゃなくて。
確かめたかった。渋谷がもう「大丈夫」なのだと。





1年前、あらゆるものを破壊した渋谷の傍で、破壊されたものたちを見て、村上は・・・怖かった。
いくら渋谷を尊敬し、心酔している者にだって、あの状態が尋常ではないことくらいわかった。異常だということくらい、わかっていた。
だけど今はユウタがいる。守るべき物がある。

だから、今更カホリに似た女に・・・『カホリに似ただけの』女に会ったところで取り乱したりはしないのだと、信じたかったのだ。自分が尊敬し、憧れている男がそんなに弱い人間ではないということを、確かめたかった。
渋谷が彼女を見たって、何も起こらない。彼女は用を済まして、この町を出て行く。そしてまた、例えば今日みたいな、普通の、平穏な日々が繰り返していく。そうに決まっている。
そう、確認したかった。





「なんや変なマスコミの人間とかちゃうやろな」
「いや、違う」
実際は、村上はの素性なんて全く知らない。もしかしたら渋谷の言うとおり、マスコミの人間なのかもしれない。引退するでもなく姿を消した、幻の天才ボクサー。そんな彼を詮索したがる職業の女。その可能性も十分あった。
だが、彼女はそんなものじゃない。
確信に近い・・・というか、確信だった。理由も根拠もない確信、簡単に言えば、勘。
「そいつはマスコミとかやない。お前に・・・・・・」
たぶん、これも勘だけど。
「大事な用がある、人間や」
そうでないと、あの必死な姿はありえない。
渋谷は瞬き3つ分黙って考えて、「わかった」とうなずいた。
「夕方頃に俺が連れに行くから」
「ほなベイサイドクラブやな」
「・・・そか、今日ユウタ、検査か」
「ああ」







渋谷は、毎日の夕陽をユウタと共に見ることを日課としていた。
『夕焼けは寂しいから』
きっとユウタがそう言ったのだろう。いつかその行動の理由を尋ねたとき、渋谷は村上にそう答えた。
『あいつが寂しくならんようにな』
破壊者ではなく、ボクサーでもなく、兄の顔をして、そんなことを、言っていた。




ユウタが大きな検査を受ける日は、一緒に夕陽を見ることはできない。
そんな日は、渋谷はベイサイドクラブへ行く。





ベイサイドクラブ。
今は、大きなダンスフロアを有するクラブだが、1年前までは違った。
渋谷がスターダムにのし上がったストリート・ファイト。その会場だったのだ。
ダンスフロアである場所にはリングが設置され、音楽ではなく歓声や罵声が飛び交う空間。
渋谷の才能を開花させた場所。それを鍛え上げた場所。





1年前、
渋谷がめちゃくちゃに破壊した、場所。





ユウタに会えない日は、渋谷はそんな場所へ赴く。
そこへ行って酒を飲むわけでもなく、踊るわけでもなく、騒ぐわけでもなく。
ただ、行って。
ただ、いるだけ。
理由もなく。






「わかった。ベイサイドクラブに、そいつ連れてくから」
「おん」











今日。



彼と彼女は、そこで、出会う。













「あのー・・・」
遠慮がちな声に、振り返る。
トレーニングジムの入り口から顔だけを覗かせているのは、横山だった。
「昨日と同じ時間にということだったので伺ったんですけど・・・出直しましょうか?」
渋谷は壁にかかっている時計をちらりと見て、「いや、今でええ」と手に巻いていたバンテージを外した。
「・・・ほなスバル、また後で」
どうせ映画の話だ。
スバルの半生を描いた映画を作りたいとしつこく頼み込んでくるこの男が村上は嫌いだった。
だから同席するつもりもなく、渋谷の肩をぽんと叩いてジムを出た。入れ違いに横山がジムの中に入っていく。







「・・・・・・後悔を、しないように」







すれ違いざま、低い声で、しかしはっきりと横山はそう言った。
「は?」
村上は振り返る。しかし横山は「いやーすみませんねぇお時間取らせちゃって。調子はいかがですか?」などと馴れ馴れしく語りかけながら、渋谷と強引に握手をしていた。
「・・・・・・」
俺に、言うたよな?
村上はその背中を睨みつけるが、もちろん横山がそれに反応するはずもない。
独り言とは思えない。だが、確認などできないし、したくもない。
だから村上は歩き出した。




後悔を、しないように。




「・・・わかっとるわ」
それでもその言葉が耳に残って離れない。
苛立ちに任せて、ガードレールを思い切り蹴飛ばした。



後悔などしない。
もう、しない。
そう思った。










そんなこと、ありえないのに。



後悔しないはず、ないのに。














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