「あ。」



西日の中、は俺の姿を見つけると、目を輝かせて笑った。



「久しぶりじゃん」



俺を見上げて、また笑う。



「久しぶりだな」



俺は答える。



「元気だった?仕事はどうなの?ちょっと痩せたよね?寝てないでしょ?」



「・・・そんな一度には答えられない」



「一度に答えないでいいよ。一個ずつ答えてくれれば」



そう言いながら、は膝にかけていた赤いチェック柄のブランケットを少し引き上げた。



「歩きながら話そう。寒いんだろ」



「・・・・・・うわ、ひどい。送ってやるから帰れって言うんだ?」



「・・・今日はまだいられるから」



「いつまで?」



「8時まで」



「ほんとに?じゃあ帰ってあげてもいいよ」



「それはどーも・・・」



相変わらずのやりとりをして、俺はの足に手をかけた。





足。





1年前のあの日から、の足は、無機質な車椅子だ。



































地方大学の医学部で、俺たちは互いに医者を志す者として出会った。
俺は周囲の人間に関心なんてなかった。ただ、誰よりも実力のある医者になるためだけに毎日をこなしていた。
は、とある講義でそんな俺の隣にいきなり座り、「どうもはじめまして、です」なんて勝手に自己紹介をした挙句俺にまで自己紹介を強要してきた。
席を移動しようにも、その日とても重要な講義が行われる予定だった講堂には他に空いてる席もなく、それも叶わない。
仕方がないから諦めて、しつこく「ね、名前は?」と聞いてくるに「藍沢耕作」とだけ答えた。



「ふーん・・・あいざわのあいって愛情の愛?」



「・・・」



「そうなの?うっわー芸名みたいな名前」



「・・・・・・」



「沢を耕して愛を作っちゃうんだ。すっごいロマンチックな名前じゃない?」



「・・・・・・・・・」



「え、実は偽名?」



「・・・違う。藍色の藍だ」



「あいいろ?・・・あぁ、藍色ね。そっかそっちかぁ」



「・・・もういい?講義始まるから黙って。」



「あ、オッケーです耕作さん」



「・・・・・・・・」



なんでこんなのが難関の医学部試験を通過したのか心底不思議だった。



































「それで、体重何キロ減ったの?」



が俺に尋ねた。



「計ってない」



正直に答えると、外国人のように大袈裟に肩をすくめる。



「自分のヘルスケアもできないような奴は出世できないよ」



「別に出世したいわけじゃない」



「いつか死ぬよ」



「人間は誰でもいずれ死ぬ」



「じゃあいっか」



そう言って、くすくす笑う。車椅子に座る頭が小さく揺れる。
ブランケットは、動かない。



































ある日、提出したレポートの返却日。
この教授は採点が厳しいことで有名で、いつも半数以上の生徒が教授の添削によって真っ赤に染まったレポートを突っ返される。
俺は「A」と書かれたレポートを受け取り、再提出のために参考書籍を引っくり返す連中には目もくれずに講堂を出ようとしていた。



「耕作ーっ!」



「・・・・・・」



それを阻んだのは、あの講義の日から毎日絡んでくるようになっただった。



「レポートどうだった?再提出?」



「そんなわけないだろ」



「ふーん・・・・・・」



「・・・・・・何?」



「・・・『お前はどうだった?』とか、聞いてくれないの?」



「別に興味ないし。他人がどんな評価受けてようが再提出だろうが、俺には全然関係ない」



「・・・ふーん・・・」



「で、何か用でもあんの?何しに来たわけ」



そう尋ねるとはぱっと顔を輝かせて、ホッチキスで留められたレポート用紙を顔の前に掲げた。



「じゃじゃん!」



そこには赤いペンで、「A+」と書かれていた。



「・・・嘘だろ・・・」



「しかも教授の『merveilleux』のお言葉つきなんですよー」



はレポートから顔を覗かせるようにして続けた。
『merveilleux』はフランス語だ。日本語にすると、『素晴らしい』。



「・・・・・・」



心から落ち込んだ。この大学で誰よりも実力をつけなければならないと息巻いていたのに、こんな女に劣るレポートを教授に提出していたなんて、みっともない。



「・・・それを自慢しに来たのか?」



「うん?うん、そうだよ!自慢しにきた!」



「・・・・・・よかったな」



「・・・なんでちょっと怒り気味?」



「怒ってねぇよ」



「・・・・・・」



はレポート用紙を口元に当てるようにしながら、にぃっと笑った。





「・・・私のことバカだと思ってたっしょ?ざまぁみろ」





































「センターからあんなとこまで歩いていったのか」



「そう」



「作業療法士の許可は?」



「忙しそうだったから話しかけられなくて」



「ふざけんな」



「これもリハビリの一環のつもりなの。私の体にいいことは私が一番よく知ってるんだから」



二人で歩く街路樹のあちこちでひぐらしが鳴く。夏が終わる。



「・・・あ、アブラゼミ」



が指さす先で、大きなアブラゼミが仰向けに落ちていた。まだ羽が動き、そのたびにジジジジ、と耳障りな音がする。
だけど最後にか細く音を響かせて、そのアブラゼミは動かなくなった。



「・・・・・・止まったね」



「ああ」



「除細動してあげないと」



「いつから獣医になったんだ。お前は、」



「私は?」



が俺を振り返る。その瞳に真っ赤な夕陽が映る。
思わず、足が止まった。



































「耕作は名医になりたい。私はいい医者になりたい。この違いはなんであるか、あなたがたには理解できるだろうか。できるはずだ。できないような人間は今こうしてこの講堂にはいないだろう」



が言った。



「・・・免疫学の竹内」



「違うね、衛生学の斉藤教授の真似でした」



「どっちでもいい」



「ほんとにね」



放課。
俺とは帰り道を歩いていた。
アブラゼミがうるさく鳴いている。



「名医といい医者の違いじゃない」



俺が言うと、は首をかしげた。



「そこ拾ってくれるとは思わなかった」



「・・・・・・」



「続けて」



「・・・・・・お前はいい医者になれる。俺は名医にしかなれない。その違いだ」



は溜め息をついて、「その太鼓判はありがたいけど」とだけ言った。
いい医者になれると、名医にしかなれない俺。それこそ、その違いが理解できない人間じゃない。
と俺は、本質が違う。



別々の場所から出発して、同じ場所を目指している。
そしてそこへ辿り着いたら、今度はその同じ場所から別々の場所を目指して歩き出す。
それが俺たちだ。



「・・・それってなんていうか知ってる?」



が言った。



「すれちがいだよ」


































「私は獣医になりたかったんじゃない。だけど、ヒトの医者にもなれなかった」



真っ赤な夕陽を映したまま、は言った。



「・・・そうだな」



俺がそう答えると、くるりとまた前を向く。



「ほんとは寒くなんてないよ」



が前を向いたまま言った。



「脚、使わなかったらガリガリになっちゃって、みっともないから隠してるだけだよ」



「・・・知ってるよ」



「耕作さっき『歩いてきたのか』って言ってたけど、歩いてなんてないよ」



「それも知ってる」







「私、歩けないんだよ」







まだ、振り向かない。



「・・・・・・それも知ってるよ」



「・・・・・・知ってるなら、いいよ」



ひぐらしの鳴き声が、いつの間にか止んでいた。




































1年前のあの帰り道、俺と別れた直後に、は交通事故で脊椎を完全損傷した。



あの日からの下半身は動かないし、痛みも熱さも感じない。移動するときは車椅子、何をするにも介助が必要な生活を余儀なくされた。



未来の自分の職場になるはずだった病院のベッドの上で、は目を真っ赤にしていた。
もう医者にはなれない。
引き続き医療を学ぶことはできても、医者にはなれない。
急患が出たときに車椅子で駆けつける医者なんて、いるはずがない。
それが現実だった。
その現実を本人よりも受け容れがたく思っている自分に、少し驚いた。



「・・・・・・俺がちゃんと送っていけば、」



「藍沢耕作はそんなこと言っちゃだめ」



早口では制するように言った。俺を見つめて、シーツをかたく握り締めて。



「名医になりたいんだったら、そんなことは、絶対に言っちゃだめだよ」



「・・・・・・でも」



「後悔なんて医療ミス起こしてからにしてよ。耕作は、ただ、現実だけを見てればいい」



真っ赤な目は、だけど涙をこぼさない。



「名医になってよ、耕作」



懇願するようにでもなく、ただ強い思いを乗せて、は俺に言った。



































「俺、翔大付属北部病院の救命救急センターに行くことになった」



俺が言うと、は振り向かないまま少し首を傾げて、「ドクターヘリに乗るの?」と尋ねた。



「ああ、乗る」



そこは、が憧れて、目指していた場所だった。



「そっか」



「・・・お前のために行くわけじゃない。お前の夢を肩代わりするつもりもない。そこは、勘違いするな」



「・・・じゃあ何しに行くの?」



試すように、が言う。







「名医になるために」







俺の答えが期待通りだったらしく、はようやく振り返って笑った。



「それなら悪くないね」



「悪くない、じゃないだろ」



俺の言葉に、があの時のようににぃっと笑う。








「『merveilleux』!」
























そしてまた、俺たちは歩き出した。











(09/04 藍沢先生リクエストでした。なのにドラマの時期よりちょっと前。結構これもいろいろ調べながら書きました。フランス語とか脊髄損傷とか蝉とか。リクエストありがとうございました!)