夢を見ていた。










『お前は俺が守るって決めたの』




いつか、私の双肩に手を置いて顔を覗き込むように、そのひとは言った。
目線が低い。きっと私がまだ幼い頃だ。覗き込んだその顔も、立派な成年というよりはどこかあどけなさの残る少年のような顔立ちだった。







『財産?そんなもんこいつのためになら捨てるぜ、お家のことなんざ知ったことじゃねぇよ』




かしゃり、と場面は切り替わる。
いつか、私をその背中に隠すようにして、そのひとは言った。
ほんの少しだけ見えた表情はとても冷たくて、私は彼の着物をぎゅっと握り締めた。彼の凍りつくような視線の鉾先を確かめることはできなかった。







『オーイオイ、泣ーくーなーってぇ・・・いいじゃん、俺がいるでしょー?』




また、切り替わる。
いつか、私の頭をぽんぽんと叩いて、そのひとは言った。
私のぽってりと熱を持った瞼に濡らした布きれを当てながら、彼はけらけらと楽しそうな声を上げた。何がそんなに楽しいのだろう。私は何がそんなに悲しかったのだろう。







『っオイ!!ふざけんなどこ連れてく気だよテメェ!!!』




また切り替わった場景に突如として響き渡った怒号。彼は端正な顔を怒りに歪めながら叫ぶ。私は別の誰かに抱え上げられているようだ。その顔は見えない。霧がかかったように、唇から上が視認できない。
夕陽を反射させている、そのひとの髪。とても綺麗な黄金色。
きらり、きらり。川が赤く染まっている。これは夕陽、だろうか。







『そいつに、触んなぁぁぁぁあ!』




絶叫。怒りと、怒りと、怒りと、懇願するかのような響きが混ざり合って、夕焼け空に響いた。






































「起きぃ」
頭の下にあった枕が、まるでだるま落としのようにすこんと抜かれる。ごとりと後頭部を布団に落とした衝撃で目を開けた。私を覗き込む、眼鏡越しの丸い目と視線がかち合う。見慣れた顔。
「・・・すばる」
彼はこの店の持ち主であり、私の持ち主でもある。力強い目、そして後ろで1つに結わえた長髪がまるで尻尾のような彼は、猫のようなひとだ。気分の浮き沈みが激しいところが扱いにくい、という声を聞いた事はあるが、私が彼を扱うことなどありえないので関係ない。



ここは、いわゆる遊郭と呼ばれる地区の一角の廓だ。
私はここで育ち、学び、今では客をとる遊女として生きている。
何歳のときにどういった経緯でここへ来たのかということは、どういうわけか一切覚えていない。だから私は、今自分が何歳なのかも正確にはわかっていないのだ。という名は本名だと聞いたがそれを確かめる術もないまま、ただ、そう呼ばれて冬を9回越した。だから、今となってはその名以外を求める必要もない。
だけどここでは身のこなし、ほんのすこしの教養、舞いなどの芸を教わり、仕事の仕方を着々と身につけ、いつしか視線や指先の動きまでも計算して動かせるようになった。
固定の客も何人もできた。次期太夫だの出世頭となるに違いないだのと周囲に言われていることは知っている。位に興味はないけれど、それを決めるのは私ではない。





「・・・見すぎ、」
思わず呟く。かち合ったままの視線はずらされることなく、むしろその距離は縮まる。立ち上がっていたすばるが、目を合わせたまましゃがみこんだからだ。
「どんくらいで支度できる」
低い声ですばるが言う。
「客や」
その言葉に私はがばっと起き上がり(すばるはぐっと身体をそらして頭の衝突を回避した)、窓へと手を伸ばした。
もうそんな時間?まさか寝過ごしたのだろうか、しかしそれまで誰も起こしに来ないなんて、そんな馬鹿な。
窓を覆い隠す雨戸を勢いよくずらすと、眩しい光が顔を照らした。目の前がまるで眩暈のように白くなる。
「・・・っ、・・・え・・・?」
日が昇っている、ということは、まだ仕事の時間ではないはず。私たちの一日は、日が沈んだ宵の口、堤燈に赤い炎を灯すとともに始まるのだから。
だけどすばるは今たしかに「客」と言った。
わけがわからずすばるを見ると、その様子が可笑しかったのか少しだけ楽しそうに笑う。そして、だけどつまらなそうな声色で「特例」と言った。
「特例・・・?」
すばるは基本的に誰かを特別扱いというものをしない。金をよほど落としていってくれる客相手には多少の融通もきかせるようだけれど、営業時間外だというのに客を追い返さず招き入れるなんてことは初めてだった。どれだけ積まれたんだか、と皮肉る声が頭の中でしたけれど、それは言葉にする必要もないだろう。
「ええからお前はとりあえず支度せぇ。何人か禿起こして使ってええから、できるだけ急げや。今日は髪結わえなおせや、ぐっちゃぐちゃやぞ・・・と、着物はこれを着ること」
そう流れるように指示をしながら、すばるは絹の風呂敷包みを床に置いた。
「着物、その客からの贈り物やで。お前にはその色が似合うからとかなんとか」
「・・・どちら様?高山様?杉下様?それとも」
「初見や」
「・・・え?」
「初見の客や」
思わず目を瞬かせた。
初見、つまり始めて顔をあわせる客。顔を見たこともないのに似合う色がわかるものか。風呂敷を解くと、薄紅色の着物が姿を現した。似合うかどうかは別として私には素敵な着物に見えたが、すばるにはお気に召さなかったらしい。ひと目で上等な代物であるとわかるその着物を一瞥して、すばるはフンと鼻をならした。
「・・・趣味悪い色やな」










禿(かむろ)というのは10歳そこそこの子供。いずれ芸子になる、いわば下積み。
すばるが部屋を出てから、禿を二人起こして髪を梳かせながら化粧をする。眠たげな表情の禿たちは、それでも丁寧に髪を梳いてくれた。



「・・・なにしとんの?」



開け放しだった戸から声が聞こえた。鏡越しに見ると、章大がいた。
章大はほとんど同時期にここに小間使いとして奉公にやってきた、私の親友と呼べる唯一の存在。禿の頃に意地の悪い太夫にいじめられても乗り切れたのは章大がいたからに他ならない。
「章大」
「こんな時間からどしたん?」
「よくわからないの。すばるが突然起こしにきて支度をしろ、と。客が来たみたい」
「こんな早くにそんな受付?すばるくん、どういう風の吹き回しやろ」
「さぁ・・・それより章大はどうしたの?」
「昨日おもっくそ座敷汚したお客さんがおってなー、開店前に綺麗にしとかなあかんってんで大掃除中やねん。畳張り替えてもうたほうが早いわ、あんなん。で、雑巾代えに廊下出たらが禿たち起こす声聞こえてんな。・・・ほら、俺が代わるから、きみらはもう少し寝といで」
章大がそう声をかけると、禿たちは素直に頭を下げてから自分たちの部屋に引き上げた。
「・・・掃除は?いいの?」
白粉をはたきながら鏡越しに尋ねると、私の髪をぎゅっと結わえながら章大はにっこり笑って頷いた。
「ま、だいたい済んだし、たまには大倉に押しつけたろ思て?あいついっつもふらっていなくなって上手にさぼりよるから」
「あ、大倉くんもいるの」
「そう、の苦手な大倉もおんの」
そんな(滅多に言わない)意地悪を言うとき、章大はじっと目を見てくる。今だって鏡越し、何が楽しいのか目をキラキラとさせながら私の反応を待っている。
「・・・」
なんとも言えなくて目を逸らせば くはっ と笑いをこぼして章大は首を傾げる。
「なんでやろなー?悪い奴やないのに。ま、仕事なんかはさぼるけどさ、がそんな露骨に苦手ーってなんの、大倉ぐらいのもんやん?俺それがめっちゃ不思議でー」
「なんで、ねぇ・・・なんとなく、というか」
私たちより1,2年後にここに来た大倉くんは何度となく挨拶以外にも話しかけてくれるけれど、何か合わない。実際、嫌いということはないにしろ、苦手なのだ。



「ふーん、やっぱさん俺のこと苦手なんや」
「・・・」
こういう登場の仕方をするところとか。



「大倉!」
章大がしまった、という顔をして振り返った。大倉くんは戸に背を預けるようにして立っていた。背の高い佇まいはとても絵になっているが、行儀悪く敷居を踏んでいる。
「俺はめっちゃ好きやのになぁー。あ、こういうこと言うから嫌いなん?」
「・・・・・・嫌い、とは言ってないでしょう」
ついでに私は苦手とも口に出しては言っていない。
「・・・えー、あ、掃除終わったん?」
「やっさんが帰ってこないから俺が一人できちんと終わらせましたー」
不自然な助け舟を出した章大は大倉くんの藪蛇な返事に一瞬言葉を詰まらせる。だがすぐににこっと笑って私を指さした。
「・・・、ごめんて。が髪やってーって言うからしゃーないやん」
「!?」
手のひらを返したようなその言葉に驚いて振り返ろうとすると、ほら髪崩れるから、と強引に前を向かされる。
頼んでいない。記憶をたどって会話を反芻してみても、私は間違いなく頼んでなんかいない。
鏡越しに章大を睨みつけるが、面白そうに笑っているだけで効いた様子はなかった。
「ま、えーけど」
呟いた大倉くんは鏡越しに私をしげしげと眺め、微笑んだ。
「ほんでもさん今日も綺麗やね、俺お客さんに妬いてまうわー。さんが抱かれてるとこ想像するとめっちゃ欲情する」
私が大倉くんを苦手と感じるのは、彼がこんなことを言うときだ。悪気があるのかないのかわからないけれど、言わなくてもいいことを口にする。
「大倉」
さすがにたしなめるように章大が彼の名前を呼ぶ。大倉くんは肩をすくめて視線を落として、



床においてある着物に気付いた。



風呂敷は解かれたままだ。大倉くんは着物の前にしゃがみこみ、呉服屋の紋を確かめるように軽く引っくり返してすぐ戻した。
「   これ、今日着るん?」
「 そうよ」
「お客さんからのもらいもん?」
「そう」
ふーん、と呟いて、大倉くんは立ち上がった。そのまま踵を返す。
「大倉?」
「あー、ちょい寝とく」
「・・・ほんま、お前の眠気は唐突やな」
章大が呆れたように言い、私は彼の退散に軽く安堵する。だが、去り際の彼の言葉に思わず振り返った。
「俺その着物嫌い。さんに似合わへん」
ちらり、着物を一瞥して、
「そんなん着たら、さんやなくなってまうよ」
吐き捨てるようにそう言い残し彼は戸の向こうに消えた。
章大と私は顔を見合わせて、首を傾げた。
「・・・どうしたんやろ、大倉」
「さぁ。すばるもあの着物が気に入らなかったみたい」
「そうなん?綺麗な色やのになぁ」
きっと、趣味の問題だ。そう二人で納得した頃、章大は私の髪を綺麗に結い終えた。











「支度は済んだんか」
戸を引いたすばるはいつものだらしない着流しとは違う、きちんとした着物を着ていた。
私はちょうど薄紅色の着物に紫色の帯を締めたところだった。章大はもう部屋に戻って、短い短い睡眠時間へと突入している。
「・・・すばるも、行くの?」
「ああ」
いつもひとりで向かう私の仕事部屋は、離れの建物の一室だ。
「どうして?」
「行くで、ほら」
私の疑問は無視して彼はさっさと廊下を歩き始めている。
もう、とため息をついて、私は彼のあとに続いた。








離れへの短い渡り廊下で、すばるは相変わらず私より3,4歩前を歩きながら「、」と声をかけた。
「なぁに?」
「お前、ここ来る前のこととか、覚えとんのか」
思わず立ち止まった。その気配に気付いたのか、すばるも立ち止まって振り返った。
まっすぐな目。力強い目。その目が不安に揺れているように見えたのは、久しぶりに見た太陽の光が目に入り込んでいるからだろうか。
「・・・覚えてないわ」
年齢も、生まれた季節、私を産んだひと、家族、環境。何故遊郭という場所に来たのか。借金があったのか、仕送りのためなのか。何も覚えていない。
それが少なからず異常なことであるということはわかっている。だけど覚えていないのだから仕方がないのだろうとも思う。思い出したところで、ここから出る事もできないのだ。
「何も?」
「何も」
そうか、と小さく呟いて、すばるはまた歩き出した。
どうしてそんなことを今聞くの?と口に出せなかったのは、すばるが私の着物を見てすっと目を細めた、その顔があまりに冷たかったからだろうか。







離れの一室の前で「少し待っとけ」と私に言い、すばるが先に私の仕事部屋へ入っていった。
先挨拶が必要なほどの上客?初見なのに?まさか政府の人間だろうか。だけどそれなら逆に政府を毛嫌いしているすばるが受け付けやしないだろう。
・・・とはいえ、勘繰ったって結局わかるわけがないのだ。
とりとめもない考えには見切りをつけて、久しぶりに見る昼間の庭を眺める。
椿の木、松の木、キラキラ光る小さな池。たしかあの池には鯉が4匹もいただろうか。覗き込んでかんざしでも落としたら大変だから、それを確かめることはしないけれど。



「おい」



すばるの声にはっと振り返る。
薄く笑いながら「逃げようとしとったん?」などと言うから、袖でぶってやった。
「おい!冗談やって、やめぇ!」
そう言って私の手首を掴む。



はた、と目が合ったその瞬間、すばるのふざけたような笑みが掻き消えた。
真剣な顔は、さっき私の記憶をまるで確かめるように尋ねたときと同じ、どこか揺らいでいるような表情だった。



「お前は、」
「・・・・・・え?」
「・・・・・・」



しかしその言葉は続く事がなく、すばるは私の手を離して渡り廊下を戻り始める。
「 すばる、」
ゆっくりと歩く背中に呼びかけても、返事はなかった。




















膝をついて、戸をひく。
「失礼いたします」
頭を下げたまま「でございます」と挨拶をして顔を上げると、その客はまっすぐまっすぐ私を見つめて、立ち上がった。
若い。予想していたよりもその人ははるかに若く、まだ二十代前半といった面持ちだった。それなのに身につけている着物はひと目でわかるほどに上質な生地で拵えてある。
彼はゆっくりと私の前まで歩いてくると片ひざをつき、私の顎を持ち上げた。確かめるように。それにしたがって私も客の顔を間近ではっきりと見ることができて、



キィン、と耳鳴りがしたような気がした。



この顔を、どこかで見たことがある気がする。





「あな た、」






そう言うのが精一杯だった。名前を呼びたいのに、呼びたい名前がわからない。もどかしくなって袖をぎゅっと掴んで俯く。



その瞬間、強く強く、抱きしめられた。





客にいつもされているような事なのに、頭の中が真っ白になって、言葉が出てこない。ただ、頭の中で警鐘が鳴り響いている。









これは、誰の声?

























ただ、彼の口から零れた私の名に、今度こそ強い耳鳴りを覚えた。















「迎えに来た。一緒に帰るぞ」




















「俺がお前を守るから」



















私は頭で何かを考えるより先に、彼にしがみついて、泣いた。








(09/20 たまにはまともな文章を書こうとしたけれどダメだった。ちなみに最後の男は赤西です。たぶん。)