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結局今目の前で煙草の煙を吐き出した男は私に特別な思いを抱いているのでもなんでもなく、その証拠に「喉渇いたな」と灰皿に短くなった煙草を押し付けて呟いた声にはそれ以上の意味もそれ以下の意味も含まれてなんていない。言ったことはないけれど小さい頃に気管支の弱かった私は今でも正直煙草の煙が怖い、だけどこの部屋には灰皿がある。 どうしてだろう、いつからだろう。彼はたしか私の恋人の親友だったのだ、最初に私の前に姿を現したときには。会ったことは2,3度しかなかったしそれはもちろん私の恋人も含めての出来事。目配せの一度だって交わされず指の一本だって触れることはなかった。 私と恋人が電話越しの喧嘩をした夜、雨が降っていた。彼は唐突に小さなアパート2階にある私の部屋へやってきた。来たこともないし知っているはずもない私の部屋に、彼は申し訳無さそうな素振りを微塵も見せずにやってきた。「終電なくなってん。泊めて」。その時間は23時、まだ上りも下りも電車は走っていた、そんなことは知っていた。それでも私は彼を家に招きいれ、そして寝た。 その夜も次の朝も彼は私と恋人のことには一切触れず、そもそも彼が私たちがもう修復不可能なまでに溝を深めてしまっている事を知っているかどうかも私には判断できず、そんな彼に喧嘩の顛末を話すのもくだらなかった。彼は私の恋人でもある自分の親友を貶すようなことは口にしなかったしもちろん私への愛の言葉も口にしなかった。それは当然で、だって彼は私を愛しているわけではない。寝たのはまるで台本でもあったかのように自然の流れであって私は彼に強引に組み敷かれたわけでもなかった。それに私にだって彼への愛なんてものはなかった。愛がなくてもその行為が行われるということは、私たち二人ともよく知っていた。 私は恋人と別れたけれどそれは彼のせいではなく当然略奪などではない。私と恋人はごく自然の流れで別れたのであって、そこに彼の介入はない。自然の流れ。ちょうど私と彼が寝たのと同じ、理由なんてない理由。 「終電、ない」。何度となく彼は私の部屋にやってくるようになり、尋ねてくる間隔はだんだんと短くなっていった。まだ昼間だというのに終電を逃す彼に私は合鍵を渡した。 彼が出て行ったあと、もみ消しきらなかったらしい吸殻からほそい煙が頼りなく、確実に上ってはこの部屋の空気に溶けていく。痕跡。なんだか堪らなくなって彼が閉めたばかりの扉をめがけて思い切り灰皿を投げつけた。アルミでできた灰皿は間抜けで癪に障る音を立ててぶつかり、落下し、回転して、裏返しに止まった。ほそい煙は消えていた。涙が出た。 コンビニのビニール袋を提げて彼が部屋の扉を開けたとき、私の涙はとうに止まっていた。ただ灰皿と灰と吸殻は相変わらず散らばったまま、私のサンダルを汚していた。彼はそれを見て瞬きを何度かして、出て行った。手にしていたビニール袋といつか渡した合鍵を靴箱の上に置いて、「もう終電、出てまうから」。今の時間は26時、もう上りも下りも電車は走っていない、そんなことは知っていた。 知っていた、彼はいつだって車で私の部屋に来ていること、今玄関に置かれたビニール袋には私の分の飲み物が入っていること。気付いていた、始まりには確かになかったけれど今となっては彼は私に愛を見せてくれていたこと、いつの間にか私を抱くときにそっと名前を呼ぶようになったこと。わかっている、私がいつの間にか彼を愛していたこと、彼なしでは生きていけないこと。 窓を開けた、真下にエンジンをかけた赤い車が見えた。窓が開いていて、彼が縁に置いている肘と、吐き出された白い煙が見えた。煙はどんどん昇って風に吹かれて、私の顔にかかる前に掻き消えた。 彼の名前を、初めて呼んだ。 彼の笑顔を、初めて見た。 (07/15 不器用さんがふたり) |