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明け方の走り慣れた道、200メートル先のガードレール脇にある白い車体にスピードを落とす。 速度とともにエンジン音が低くなって、それでも耳に残る虫の羽音みたいな甲高い音に脳みそが揺れているような感覚。 「じーんー」 その耳鳴りを打ち消すように、高くもないし低くもない、よく通る声が聞こえた。 さらさらと髪が、くわえた煙草の煙と一緒に風になびく。 細い体に似合いもしないでっかい単車にまたがったまま、さんは俺に手を振った。 「さん!」 さんの前で単車を止めて、ガードレールに寄せた。 俺が煙草を加えるとごく自然にジッポの火が近づけられる。 綺麗な形をした爪には薄いピンク色のマニキュアが塗られていて、その指先は少しだけエンジンオイルに汚れていた。 「さんきゅっす」 「仁、今帰り?」 「そっ。さんはこんな時間から何やってんの?仕事は休み?」 「今日休み。せっかくだから今からちょっと流してこようと思って、エンジンあっためてんの」 さんは俺のひとつ年上で、とても綺麗なひとだ。 朝日と単車と煙草と、これらがこんなに似合う女を俺は他に知らない。 高校には行っていなくて、中古バイク屋で働いている。 ちょっとした修理や改造なんかもできるらしくて、仕事をしている姿は真っ黒になってみっともないからあまり見られたくないなんて言っているけど俺はそうは思わない。 半年くらい前に一度さんの働いている店を覗いた時に見た、Tシャツもジーンズも真っ黒にして汗を流している姿。みっともないなんてとんでもない。とてもかっこよかった。本人に言ったら「ばーか」とタオルを投げつけられたけど。 それと、働いているときはもちろん、走っているさんは、それこそ死ぬほどかっこいい。 自分の手で白く塗装したというカワサキのZU。名前だけでびびるようなそれを、さんは完全に支配して走る。 俺のみたいにガンガン音出して走るわけでもないのに、圧倒的な存在感がどんな道路も仕切って走り抜ける。 そんなさんの白い単車の隣をぴったりと守るように走る同じZUは、ツヤすら消してある漆黒の車体だ。 「智久はまだ寝てるから、今だ!ってそーっと出てきた。起きてるとついてきちゃうから」 俺の銀色のホンダのCBを見下ろしながら、さんは煙草を落とす。 それをスニーカーの底でつぶして、また新しい一本をくわえる。ライターを出そうと思ったけどどこにしまったのかわからなくて、さんは気にしたふうもなく自分のジッポで火をつけた。 そして、眉を下げて笑う。 「あいつついてくるとめっちゃ悪目立ちするじゃん?あたしは普通に走ってるだけなのにさー」 さんはいつもこんな笑い方だ。まるで困ってるみたいに笑う。それがとてもセクシーだと思う。 さんはピィの彼女だ。 ピィ、こと山下智久。同じ団地に住んでいて、小さいころからいつも一緒だった。 ひとつ年上。だけどそれを抜きにしたってピィは大人びていた。かっこよくて、あったかくって、なんでも受け容れてくれた。 ピィみたいになりたいと思ったことは一度や二度じゃない。漠然とした憧れを常に俺はピィに抱いていた。 父親がいない俺はからかわれたり囃し立てられたりすることが多かったけど、ピィはそんなこと関係ないのだというふうに俺の隣で笑っていてくれた。 平気なふりをしても、囁かれる陰口や時折やってくる寂しさ。それにだってピィは気付いていたんだと思う。それくらい、近くにいたのだ。俺たちは兄弟も同然だった。 俺は母さんとピィがいればそれでよかった。 だけど俺には、母さんとピィしか、いなかった。 それが変わったのが中学生の時だ。街で見かけた単車は変わったデザインで、ピィに言わせれば「カスタマイズされている」らしかった。 その形、大きさ、輝き。背中がぞくぞくとした。魅せられた。 それから俺は単車にどんどんのめりこんでいった。ピィもいつしか一緒にのめりこんでいた。 買えもしない単車を雑誌越しに見つめたり、中古で安く譲ってくれるひとを探したり。 初めて、そこまで好きな事ができた。やっとのめりこめる物が見つかった。だから楽しかった。二人で単車の話をしていれば時間はあっという間だった。 ただ、俺は単車に乗れればそれでよかった。仲間はほしいけど組織とかしきたりとかそういう面倒くさいことには関わりたくはないと思っていた。 だけど、ピィはいつの間にか俺たちの通う中学で超がつく問題児になり、そして俺より一年早く進学した高校で、俺が入学する頃には頭となっていた。 俺が高校で「ピィ」なんてあいつの昔からのあだ名で呼んだら、周りが騒然としたほどだ。 基本的には山下さん、上級生でも山下くん、そう呼ばなければ、ピィはともかく周りを取り巻く強面な連中が黙ってはいない。 かくいう俺だって、その瞬間に誰だか知らない奴らに胸倉を掴まれた。 ピィが「仁はいーんだよ」と言わなければフクロにされていたんだと思う。 ピィはそんなところにいた。いつの間にか、そんなところに。 ―――殴られたから殴り返して、ついでに相手のムカつくとこを潰していってたら・・・いつの間にか『こんなところ』にいたんだよ いつだったか俺がどうしてと尋ねたら、そう答えて苦笑していた。 ピィ自身は何も変わってはいない。大人で、単車が大好きで、要領がよくて、コーラが好きなピィのまんま。 ただ、『そうじゃない』ピィがいたことも確かだった。 小さい頃はアリを殺すこともしなかったのに、今では人間を平気で足蹴にする。踏みつける。嘲笑する。拳を真っ赤に染めて、同じ色に染まっている相手の顔面を尚殴り続ける。 気に入らないことがあると窓ガラスを割る。そして飛び散った破片で誰かを傷つける。 それでも、そんなふうに塗られた一面が増えただけだ。ピィはピィであって、ピィと俺の間柄だけは変わらない。 そう信じなければ、小さい頃とどこも違わないピィの笑顔を、怖い と思ってしまう。 そんなことがあっていいはずなかった。 一度だけ、ピィに誘われてピィの統べるチームの夜会に顔を出した。 集まり自体は退屈で、総勢50人での走りはそれなりに楽しかったけれど俺がしたい走りとは違った。俺は別に他の族の人間や警察を挑発したくて単車に乗っているわけじゃない。 だけどそこで俺はさんと出会った。 「仁、これ。俺の超大事なオンナね。、これ仁。俺の超大事な親友ね」 そんなふうに紹介されて。 ピィはさんをそれは大事にしていた。 さんを見る目はとても温かかったし、どんな状況でも当たり前のように気を使うし、いつも隣に座らせていた。 「起きてたらついてきちゃう」というさんの台詞だって、ちっとも大げさじゃないくらいだ。 それに、さんももちろんピィをすごく大切に思っていた。 二人はいつだって幸せそうに微笑み合っていた。 半年くらい前、ピィとさんは一緒に暮らし始めた。 それでも俺は、さんに惹かれていった。 何かをするつもりじゃない。奪うなんてとんでもない。さんはピィの隣にいるときが一番綺麗だったし、ピィとさんが並んで走る姿が俺は誰よりも好きなのだから。 憧れ。そう、これだってただの憧れだ。ピィに抱いていたのと同じ感情。 「仁も一緒に行く?」 「え」 「あーでも仁もこれから学校だもんね。それにそのエンジン音じゃ、下手したら智久より悪目立ちだわ」 「・・・あ、 うん、そーだな!やめとくやめとく」 本当は一緒に行きたかった。 「また今度一緒に走ろーねーん。じゃ、そろそろ行くわ」 ピィみたいに、ピィのポジションで、さんと走りたかった。 「・・・なぁ、」 うん?とメットを取り出しながらさんは俺を見る。 その手は白くて、爪は綺麗な薄ピンク、ところどころにエンジンオイル。 そして、さっきは見えないふりをした、左手の薬指の T という小さなタトゥー。 「・・・まだ寒いぜ、グローブ貸したげる」 「ほんとに?アリガト。あとで智久に返させるね」 手渡した俺の黒いグローブをその手にはめて、うわ、仁手ぇでか、とつぶやいてさんは笑った。 いつもの、困ったような笑い顔。 「じゃ、またなー♪」 そう言ってエンジンを何度か空ぶかしさせてから、さんは走り出した。 白い車体が見えなくなるのにそう時間はかからない。 見送ってから、俺も単車にまたがった。 ウォンウォンとエンジンを鳴かせて、走り出す。 朝の冷たい空気をきって、手が寒くてなんだか笑えた。 (03/08 目先の物が輝いているから気付かないだけで、その感情は) |