ガチャ、と玄関が開く。 足音を立てずに部屋に入ってきたを狸寝入りで迎えた。 「・・・・・・」 「どこ行ってたのー?」 がそっと俺の顔を覗き込む気配がしたから、目を閉じたまま尋ねた。 狸寝入りにすっかり騙されていたらしいがきゃあ!と小さな悲鳴を上げて、それが可笑しくて俺は満足して目を開ける。 「くくっ・・・なー、朝っぱらからどこ行ってたんだよー」 「っ寝たふりとかしてんじゃねーよ!・・・、・・・ちょっとコンビニで朝ご飯買ってきただけだから」 「1時間以上かけてー?しかもZUでー?どこのコンビニだったんでちゅかー?」 「・・・ヤメようよその喋り方、気持ちワリィ」 「が適当なこと言うからでしょー」 「・・・・・・国道、ちょっと走ってきた。早くに目ェ覚めたから遊ばせてきたの」 コンビニ行ったのも嘘じゃねーし、とコンビニの袋を起き上がった俺に見せて、テーブルの上に中身をばらばらと広げる。おにぎり2つとサンドイッチ2つと味つきゆで卵、コーラとカフェオレ、あと俺の赤マルとのマルメンが一つずつ。 は俺にコーラを手渡して、俺がそれを受け取って封を切る。バイクに揺られたコーラは酸素に触れればあっという間に泡まみれで、しばらく待たないと飲めそうにもない。 カフェオレにストローを刺して、が煙草に火をつけた。 「智久、おにぎり焼鮭とシーチキンとどっちが」 「心配した」 唐突に言えば、の動きが止まる。 「つーか、寂しかった」 はつけたばかりの煙草を灰皿に押し付けて、俺の頭を抱きしめた。あまり大きくはないけど柔らかい胸の感触。ゆっくりの鼓動。それに包まれて、中途半端に生温い布団の温度を忘れていく。 現在時刻は10時半。 「今日学校で仁に会ったらコレ返しといて」 そう言ってに手渡された仁のグローブを勝手にはめて、学校までの道を歩く。基本、学校に行くのに単車なんか使わない。置き場に困る上、いろいろとよろしくない意味での接点の多い警察に自分の居場所をわざわざ教えることもない。 が出かけるときに会ったというから、仁はきっとまた真夜中に走っていたんだろう。 仁は母親と二人で暮らしている。とても優しいお母さんだ。仁と仲の良い俺にも昔からよくしてくれたし、何より仁をたった一人でたくさんの愛情をもって育て上げた。 だからなのか仁は母親とても大事に思っている。心配させたくないようで、夜中寝静まってからそっと家を出るのだ。そして夜通し風のように走り続けて、明け方に家に帰る。そして自分を起こしに来た母親に、まるで今起きたかのような顔で「おはよう」と言う。 そう、仁は優しい。 優しくて、少し馬鹿で、だけどやっぱり優しくて。こいつは自分とは違うのだ、と幼いながらに思っていた。 そして、俺もこんなふうに優しくなれたらな、とも。 父親のいない子供だという負い目を背負っていた仁は、それでもいつも笑っていた。ふざけて、寂しさなんて知らないという顔をして。だけどその目が不意に暗く翳ることに気付ける程度に、俺たちは近くにいた。 それが、中学生のときに一緒に出かけた先で初めて単車を見たときに変わったのだ。 特徴的にカスタマイズされたそれを見て、すげぇな、と感服するように呟いたその目は、見たこともないくらいにキラキラと輝いていた。俺はそれが嬉しくてたまらなかった。 その足で本屋に向かい、二人で単車の雑誌を読みまくった。仁に好きなことができたのだから、付き合おう。そう思っていたけれど、雑誌やカタログを見るにつれて俺の中にも単車への憧れが募っていった。そして完全にハマってしまうのにも時間はかからなかった。考えてみれば、俺にだってそれまでは特に好きなことなんてなかったのだ。 ただ、その時から周囲は変わっていった。 周囲からしてみれば俺たちが変わっていったのかもしれないけれど、俺たちは俺たちのままでいたのに。 単車に憧れる、単車を乗り回すことを夢見る。そんな子供はやっぱり周囲からは「そういう目」で見られて。 いわゆる不良と呼ばれる同級生や先輩達が徐々に俺に声を掛けるようになってきた。それは好意的なものでは決してなく、むしろ出ている芽は早いうちに摘んでおけ、という威圧的で挑戦的なものだった。 そして、あの日。 中学で一番幅を利かせている男。バックに高校生がついてるだとか族がついてるだとか、そういう評判の耐えないそいつが、仲間4人と連れ立って俺を呼び出したのだ。 生意気なんだ、とそいつは言った。調子に乗るなと。そして殴られる。蹴られる。シンナーでぼろぼろになった歯を覗かせるニヤニヤと気色悪い笑みで、どうしてもというなら俺の舎弟にしてやる、なんて言う。冗談じゃない。 俺は単車が好きなだけだ。乗れればそれでいいし、迷惑だってかけるつもりはない。 それでも、それだけのことを貫くのが難しい現実。 こんな奴の舎弟になんて絶対になりたくない。 それなら単車を捨てるか? ・・・そうだ、もう何年かすればこんな上下関係のしがらみにとらわれることなく堂々と乗ることができるのだから、それからだって遅くはない。今、こんな思いをしなくたって・・・ 殴られた腹を押さえながらそう考えていた俺に、シンナー野郎はまた気持ち悪く笑った。 「一個下の、赤西とかいうガキもテメェと『同じ』らしいじゃねーか。次はそいつの番だぜ」 その瞬間に、何かがふっ切れたように世界の色が変わった。 あいつをこんな風に殴るつもりか あいつにそんな汚いツラを見せるつもりか あの日の仁の輝いた目 単車の話題を持ち出すときの、嬉しそうな声 いきいきとした笑顔を、最近は頻繁に見せてくれるようになったんだ そんなあいつの変化に気付いたあいつのお母さんが、俺にありがとうって言ってくれたんだ 俺は何もしていないけど、お母さんがそう言ってくれたことが、それほどまでにあいつが変わったことが、 俺は、半端なく嬉しかったんだ あいつがやっと見つけた「それ」を、奪うつもりなのか 何も知らないお前らにそんな権利があるのか お前らはそんなに偉いのか あいつが笑ったのに あいつが見つけたのに あいつが、 あいつが、あいつを、あいつに、 だったら俺は、 俺が、 そんなこと させない 全体重を込めた拳をそいつの顔に食らわせていた。人を殴った手はとんでもなく痛いけど、それにも気付かずに俺は衝撃で倒れたそいつの上にまたがって殴り続けた。ボロボロになった歯が欠けて飛び出す。汚い。気持ち悪い。 そいつと連れ立っていた何人かの似たような奴らが一斉に俺に殴りかかってきて、だけど妙に頭は冴えていた。殴って殴って殴られて。全身の筋肉と神経と、落ちている石すら使って。 気付けば倒れているのは俺以外の人間。意識はあるみたいで、地面に顔をつけたまま目だけは俺を射殺すようににらみつけていた。 よくわからない色に染まった学生服、口の中に広がる血の味。 冴え冴えとして、妙に頭がすっきりとしている。 うつ伏せに転がっているそいつの傍にしゃがみこんで、脱色してある髪を掴んで顔を持ち上げる。あちこちが腫れあがって変色していた。 「・・・オマエさっきなんて言ったっけ?」 かすかに開いた目が、奇妙に揺れながら俺を見る。恐がっているのだ、俺を。あんな風に笑っておいて。あのぼろぼろになった歯を見せて。 ・・・ああそうだ、あの歯が無性にむかついたんだ。 半開きになった口に、小さな石を3,4個放り込む(やめろ、と倒れている誰かが叫んだ)。 そして、そいつの髪を掴んでいた手をそのまま思い切り振り下ろして・・・顎を地面に叩きつけた。 変な音がした。 そいつはヒィヒィと呻きながら口を開く。小石と、真っ赤な血と、たくさんの歯の欠片が流れ出た。もう一度頭を上げさせて口の中を見れば、もとからぼろぼろだった歯はもうほとんど残ってなくて、まるで赤ん坊の口みたいだった。 「・・・それ、喋れんの?」 そう訊ねながらなんだか可笑しくて仕方なかった。我慢していたけど笑い声はとうとう堪えきれずに零れだす。 「プッ・・・ははははは!あははははははははっ!!」 笑いすぎて苦しい。もうシンナー野郎に意識はないようで、髪から手を離すと力なく頭を地面にこすり付けた。 どうにか笑いを落ち着かせて、俺は立ち上がる。そして、軽く回りを見渡す。倒れている連中は顔を真っ青にして俺を見上げていた。 「なー・・・、こん中で立てる奴いる?」 誰かが息を呑んだ。 「もし立てる奴いたらさ、」 舎弟にしてやってもいーよ。 半ば冗談で言ったそれに、そいつらは一斉に立ち上がった。呻きながら、苦しそうに、だけど立ち上がった。 これでいい。これでいいんだ。 これが最善だった。これしかなかった。 だって俺が、仁を守らなければ。 あいつの笑顔を、キラキラした目を、守れるのは俺だけなんだ。 これで誰も仁に手は出せない。 あいつの自由を誰も妨げたりはしないんだ。 とんでもないことをしたのだという自覚はある。引き返せない道へ歩き始めたのだということもわかった。これから何が起こるのか、自分の周りがどう変わっていくのか、何もわからない。恐くて仕方がなかった。 なのに何故だろう、手の痛みが、歯が砕ける感触が、奴らの目に浮かぶ恐れの色が、不思議と小気味良く感じる自分がそこにいた。それと、奇妙に満ち足りたような気分。 全く別の人間が俺の中にいる。 そう考えれば気が楽になったのかもしれないけど、俺は楽になんてなりたくはない。 これも俺だ。あれも俺だ。俺は、俺だ。 俺は、俺をしっかり持たなくては。 そうじゃなきゃ負けてしまう。そうじゃなきゃ守れない。そうじゃなきゃあいつと走れない。 そうじゃなきゃ、 全て失くしてしまう、気がした。 (03/08 見失ってなんてないはず、だけど) |